2020年02月14日

「対話としての聖書」@〜㉕

「対話としての証言」

証言とは法廷用語で、証言には、「語られる証言」、「行なわれる証言」、そして「生きられる証言」の三態が考えられています。

そのいずれの形を通してなされるにしても、「証言が証言として、真に生かされている」時には、その証言に接した人々の側から、それに対する何らかの「問い」が触発されるはずです。

証言に対する反応としては、次の三種の場合があり得ます。

その一は、証言をきいてもその意味が分からないため問うことさえ出来ず、これを無視してしまう場合、

その二は、証言をきいてその意味が分かっても、自分には何の関係のないものとして無視するか、あるいは傍観的になる場合、

その三は、前述のように、その証言を理解するとともに、それを聴かされた者のうちに、その証言のさし示す何ものかについてーー否定的にせよ・肯定的にせよーー「問い」がおこり、探求心が刺激される場合です。

証言とは、何らかの意味でこのようにこれを聞いた他者に「問わせる」に至らなければ、真の証言の目的を果たしたことにはならないのでしょう。

他者をして「問わさせずにはおかない証言」とは、いったいどうして生起するのでしょうか。

証言は、人間の作為(意)によるものであってはならないのです。

ここでは「問われる証言」の生み出される「条件」を聖書正典から探り求めてみます。

それは、すくなくとも、証言者自らが「上から問われる」ことなくして、他から「問われる証言」を語ることはできないからです。

「上から問われる」ということは、いうまでもなく、移り変わる時代の状況、ひいてはその中におかれた個人個人の特定の状況においてであり、かつその信仰と生活の規範として与えられている聖書正典との「対論」の場においてです。

神は聖書を通してのみ教会に語りたもう、というのが教会の根本基底です。

「問われる証言とは?」と正典に問うとき、正典からの応答として、二つの相反的な訴えがあります。

その一は、証言者に求められる「絶対的確信」であり、

その二は、証言者に求められる「逆説的否定」です。

証言者に求められる絶対的確信とは、「証言の効力に関する正典の評価」から生まれるそれです。

証言の効果は、それが他人から受け容れられた度合いによって測られてはならず、証言はただ「確かに証言者がそこにいた」という事実によるという一点です。

その点をもっとも雄弁に語っているのはエゼキエル書の、
「あなたは彼らに、
『主なる神はこういわれる』
と言いなさい。
彼らは聞いても、拒んでも(彼らは反逆の家だから)彼らの中に預言者がいたことを知るだろう」(エゼキエル2:4-5)
という言葉です。

キリスト者のキリスト指示、キリスト志向、キリスト証言にとってこれに勝る挑戦があるでしょうか。

次に証言者に求められるのは逆説的否定です。

証言の目標は、証言者ではなく、被証言者キリストです。

それは被証言者キリストを指さして証言者バプテスマのヨハネが、
「彼は必ず栄え、わたしは衰える」(ヨハネ3:30)
といった言葉に集約されつくしています。

証言者はいわば「隠されるため」にのみ顕わされている者、したがって、証言者とは「隠されたキリストが顕わされ、顕われた者は隠されるため」に他ならない、という真理の、具体的実演者に過ぎない、ということです。

その意味で証言者とは、サマリヤの人々が、
「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。
自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救い主であることが、わかったからである」(ヨハネ4:42)
と語った言葉を聞かされたサマリヤの女の位置に、簡単に言えば無視される位置に歓んで身をおく者のことです。

以上の二点が「問われる証言」を聖書正典に探求する者の限りない光であり支えです。

キリスト者の証言が「問われる証言」であるか否かを問わねばならないのは、「教会」とその肢である個々のキリスト者が、「この世のものでない」ーー従って異質的なーーものとして、常にこの世からは「問われる」べき存在だからなのです(ヨハネ15:18以下、17:14以下)。

この意味で、キリスト者がその全存在として、教会がそれ自体として、「問われなくなる」時、それはその本来的な「存在理由が失われてしまった」ことです。

しかもあくまでも教会とその肢であるキリスト者はこの世に「遣わされている」ものです(ヨハネ17:18)。

ここにこの世に対して、「開かれつつ・閉ざされ、閉ざされつつ・開かれている」という「遣わされたもの」の存在理由を貫徹するための危機的緊張への要請があります。

それは旧約聖書の選民イスラエルが要請された危機的緊張に対応しています。

選民とは「祭司の国・聖き民」として規定されていますが(出エジプト記19:6)、それは前者が他に向かって「開かれた」在り方であり、後者が他に向かって「閉ざされた」在り方であるという意味において、選民には、「開かれつつ・閉ざされ、閉ざされつつ・開かれ」ているという相反的緊張に耐える在り方を求められていたことに対応しています。

このような相反の緊張に耐えることは至難なことです。

誘惑はこの相反の緊張を解いてその二者のいずれか一方の主張に傾くということです。

「開かれた在り方」を無視した「閉ざされた在り方」は、過去的伝統(形式)への盲従に堕し、「閉ざされた在り方」との緊張を失った「開かれた在り方」の絶対視は、妥協ひいてはミイラ取りがミイラになる誤った世俗化への危険を孕みます。

旧約聖書は、選民に求められるこの相反の緊張に耐えしめる唯一の条件として、「神言への現在的聴従」を迫りつづけています。

このことの新約聖書的、教会的再確認としてひびくのが、主イエスの弟子たちに対する大祭司の祈りとして記されている次の言葉です。

「わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。
真理によって彼らを聖別して下さい。
あなたの御言は真理であります。
あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。
また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします」(ヨハネ17:16以下)。
「問われる証言」の生まれる条件を、聖書正典から「問われる」という一点にしぼってみてゆきます。

キリスト者の実践は「右へならえ」のような律法的なものでもなく、画一的なものでもあり得ません。

各自がおかれている位置も、各自の出会う出来事も、全く特殊的であり、個別的だからです。

キリスト教がしばしば道徳の教えとか、律法宗教とか、倫理宗教でしかないように考えられていますが大きな誤解です。

キリスト者の特殊な「使命」からのみ特色づけられる個性的なものです。

キリスト者とは、この世のものではないのに、この世に遣わされるため、「選ばれた者」です(ヨハネ17:16-18)。

キリスト者は「天地の造られる前から、キリストにあって選ばれた」教会の肢なのです(エペソ1:3-5)。

それでは特殊な使命のために選ばれた者の使命遂行ということにおいて絶対に不可欠なことは何でしょうか。

「証人の相反性」

【参考】
途上国の実情に詳しく、自らもその最前線で戦った獣医師の塩田眞氏からその赤裸々な姿を聞くにつれ、「神の沈黙」が忌々しくなった。

神の啓示を、戦場における危機的出来事として説いているカール・バルトの次の一節を思い出さずにはいられなかった。

神の啓示を、戦場における危機的出来事として説いているカール・バルトの次の一節です。

「最前線の部隊から(よく理解せよ。詩人や思想家のグループからでもなければ、人間の事柄を観察している余裕のある人々からでもなく、また自分自身の行為や苦しみに没頭している誰かれからでもなく、この敵と直面しなければならぬ兵士からである)、この前線の直ぐ背後に待機している増援部隊に(よく注意せよ。新聞記者とか、その他の観戦者のグループにではなく、あの第一の部隊と同じように敵に出会い・戦う運命にある、やはり一つの部隊にである)、この攻撃の事実について(注意せよ。最前線の兵士自身の安否とか、敵の現状や本質についてではなく、単純に、『敵がわれわれを攻撃した』というこの事実についてである)、報告が来る(注意せよ。理論的体系でもなけれは、審美的評価でもなく、活動綱領でもなく、迅速に客観的に報告が来るのである)。
敵によってすでに攻撃されたこの部隊が、預言者・使徒であり、今はまだ前線の背後にひかえている増援部隊にもたらされた彼らの報告が、聖書である」(『教会−活ける主の活ける教団』井上良雄訳、新教出版社、一九七八年、六−七頁)。


(注)
ヨシュア記以下、エステル記に至る各書は、多彩きわまる角度から、神言への現在的聴従者たるべき選民の、自己保全的、近視眼的、惰性的処し方に対する、「危機的受け取り直し」を迫っています。
そこには、聖別と連帯の緊張を求められる選民の課題としての危機的状況判断が躍如と描き出されていえます。
これは「この世のものでない者として、この世におかれている」教会として求められる「危機的状況判断」への先駆的警告です(ヨハネ17章)。




旧約聖書は「証人の相反性」を、「選民イスラエル」に求められた「聖い民」および「祭司の国」という両性格として明示しています。

出エジプト後、イスラエルの選び主である神は、その民の指導者モーセを介し、民に向かって、
「あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。
それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。
全地はわたしの所有だからである。
あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう」(出エジプト記19:4-6)
と約束されました。

「祭司の国」とは、祭司の特殊な使命である「他の民全体の罪を負って神の前にとりなす」という在り方であり、「聖い民」とは、「他の民からは区別され、神のために聖別された」在り方を示しています。

したがって選ばれた者がその使命を遂行するためには、他の民に向かって開かれている水平的関係(横の関係)と、神に向かって聖別されるために他に向かって閉ざされている垂直的関係(縦の関係)とが一元的に結びついていなければならないということです。

開かれた在り方と、閉ざされた在り方という、相反する両性格を結びつけるということは、決して楽なことではありません。

モーセに対する主の言葉は、
「もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば」
という条件を通して、それが選び主と選ばれた者との垂直的対話によってのみ遂行されることを示しています。

新約聖書でも、その弟子たちに対する遺訓である主イエスの「大祭司的祈り」の言葉に、この旧約聖書の言葉が「こだま」しています。

主イエスは、
「わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。
真理によって彼らを聖別して下さい。
あなたの御言は真理であります。
あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。
また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします」(ヨハネ17:16-19)
といわれました。

以上のような聖書の強調からしても、特殊な使命のために選ばれた者の実践は、横に向かって開かれた水平的関係と、縦のために閉ざされた垂直的関係の交差点に立つ個性的な立ち方の問題にしぼられます。

この交差点に立つとはどんな意味でしょうか。

「この世のものではない者が、この世につかわされている」といわれている教会の肢としてのキリスト者は文字通り、安住をゆるされないような、狭い山の尾根をゆくような、危機的在り方を迫られています。

「聖別」がさし示す垂直的関係はどこまでも「神中心的」考え方を貫くことを要求するのに対し、キリスト者がつかわされているこの世という水平的関係はどこまでも「人間中心的」考え方を貫くことを要求するからです。

このように全く相反する方向の交差点に立つ者としては、それらが相反するのですから、これらを直結させることは許されません。

直結させられないからこそ、その交差点に立つキリスト者各自は、垂直的関係から与えられる方向指示に従いつつ、そのおかれた横の関係ーー水平的関係ひいては社会ーーに対する状況判断とともに、その独自な「応用」を迫られるといえます。

このような交差点に立つ信仰者の判断が、いわゆる「信仰的判断」とよばれるものであり、ここにキリスト者の実践の先行条件があるのです(Tコリント10:15、11:13など)。

それではこの「信仰的判断」とはどんなことなのでしょう。

それはいうまでもなく、社会のいわゆる約束とか、慣習にもとづく常識的判断でもなければ、各自の属する教派の伝統的判断と全く等しいものでもあり得ません。

そうかといって、それは傍若無人な、ひとりよがりの判断を意味するものでもありません。

結論的にいうなら、キリスト者の実践の基礎条件としての信仰的判断は、教会がその「信仰と生活の規準」として告白する聖書正典を「汝」として、「教会とともに」対話し、そこから横の関係ーー水平的対話へ押し出され、状況判断を各自の責任において行なってゆく営みといえます。

垂直的対話と水平的対話とは、一から他へ、他から一へと循環的に、そして緊張的に保たれるということこそ、この世のものでないが、この世につかわされて、その相反する方向指示の交差点に立たされる者の課題的在り方というべきでしょう。

キリスト者の実践は、聖書において「証し」として特色づけられていますが、「証し」の構造もやはり、このような交差点に立つ個性的立ち方に他なりません。

つまり「証し」の本質は、垂直的対話と水平的対話の緊張にどれだけ耐えるか、ということにかかり、対話する真剣さにかかっていると結論すべきです。

そこで次に、対話の構造にふれてみます。
  
「対話の構造」

他者との出会いのあるところにのみ、「対話」があります。

人は常に何かとの関係において生きていますが、その「関係し方」にも多くの次元(領域の別)があります。

その関係の代表的なものをあげてみます。

第一は「私と物」との関係のし方です。

これはいいかえれば、「私とそれ(it)」という関係です。

私どもは無数の物にかこまれて生きています。

私どもは日々何らかの道具を用いながら生活しています。

私は道具に対しては、道具の利用者であり、道具は私に利用されるものです。

また私は物に対しては、その物を特定の目的のために処理する位置に立っています。

したがって、物という「それ(it)」は、大ざっぱにいうと、私に対しては「処理可能」な(どうにでもなる)存在という関係に立っています。

次に私は私以外の「他人(ひと)」と関係を保って生きています。

ところがこの人と人との関係し方にも、第二人称として対する場合と、第三人称として対する場合とがあります。

他人(ひと)の噂をするとき、あるひとについて話し合うとき、私はそのひとに対して、第三人称的な関係し方を保ち、そこに居合わせていないその第三者を「彼」または「彼女」として語ります。

ひとが「彼」または「彼女」として語られるとき、私は、「彼」または「彼女」について、私の頭の中で推察し、私の趣向から価値判断を下し、私流に予想し、私流に割り切ることが何らの抵抗なしに出来るという関係に立っています。

しかしそのような「彼」または「彼女」は、もはや、生きた「彼」「彼女」ではなく、私に「知らされてしまったものとしての彼(彼女)」であり、私の頭の中で形造られ、私の所有となってしまった過去化された影像でしかないわけです。

そこでも、私は「彼」「彼女」に対して、「処理可能」なものとしてしまっている「処理者」となります。

そこに不在の「彼」「彼女」は、私のつくる枠、私のつくる前提、先入感を破り、否定し、抵抗してこないが故に、そこには致命的な「ひとりよがり」に安住する、自己陶酔的な、独語の世界があるのみです。

対話の構造とは、したがって、「私とそれ」という関係し方でもなく、「私と彼(彼女)」という関係し方でもなく、ただ「私と汝」という関係し方において成り立つ「出会い」を不可欠とします。

「汝」とは、私からは独立の、自由と責任の主体として、私に向き合う他者を意味しています。

「汝」はしたがって、処理可能な「それ」でも、「彼(彼女)」でもありません。

文字通り、「汝」は、私にとり「処理不可能」な他者として向き合う主体です。

したがって、「汝」は、私とは個性的に全く異なる者、利害関係を異にする者、立場を異にする者、使命を異にする者、私の予想とか、前提に基づいてつくられた「枠」にはめこむことのできない者である、という意味で、全く「処理不可能」な主体です。

極言すれば、「汝」はつねに何らかの意味で、私の投げかける枠を破り、私の予想と期待とを全く裏切り、私の意表をつくような発言者、抵抗者なのです。

その意味で、このような「汝」こそは、文字通り、不気味な他者、未知数の他者なのです。

このような不気味さを伴わない出会いは、実は「汝」との出会いではありえません。

私に対する「汝」は、これ以外のものであってはならないはずです。

しかし果たして、どの程度私どもは、他の人格をこのような「汝」として出会い、「汝」として対話しているでしょうか。

未知数に耐え、未決定に耐え、不気味さに耐える、という姿勢を、生来の人間は好みません。

私どもは何としばしば他者を、「それ」または「彼(彼女)」という「処理可能」なものとして扱っていることでしょうか。

こうして私どもはいつしか「ひとりごとの世界」に安住を求めやすいのです。

しかしこれは恐るべき逃避であり、現実回避であり、自己陶酔でしかありません。

それのみではありません。

この「私」も、「汝」である「他者」に出会うことによってのみ、否、「他者」によって抵抗されることによってのみ「私」となるのです。

ここで、「ひとは二つの文化を知るまでは、その一つをも知ったことにはならない」といったゲーテのことばを想い出してみましょう。

他者の自覚のないところには自己の自覚もなく、他者の発見のないところには自己の発見さえのぞめないのです。

以上人と人との対話の構造からすすめてきましたが、キリスト者の求められるのは、このような水平的対話の基礎ともいうべき垂直的対話です。

人と人との対話は、いわば質的には異ならない、どんぐりの背くらべといったような相対的な「汝」と私との対話であり、これは便宜上「小文字」の「汝」との対話とよんでおきます。

それに対し、神との対話は、「大文字」の「汝」との対話であり、「絶対他者」との対話です。

そこにはキルケゴールの言葉をかりれば、神と人との質的断絶があります。

しかしここで大事なことは、人と人との真の対話に不可欠な「他者性」、ひいては「汝性」ということは、人と人との向き合いからは絶対十全には生じえないものであり、それはただこの大文字の「汝」との出会い、大文字の「汝」との対話からしか生じえないという一点です。

対話の構造において明瞭にしておかなければならないことは、対話は「今ここ」という時空的(時間的にも空間的にも)規定をもつということです。

「今ここ」という一点を外したものは、もはや真の対話とよぶことはできません。

生きた人格関係とは、つねに「今ここ」という現在的な関係を意味します。

互いに似通った人と人との親しい仲でさえ、二人が相互に相手を「知りつくす」ということはありえません。

「知りつくした」と思う相手は、私の頭の中で形づくられ、私の所有となってしまい、私の処理可能な「それ」のような過去的映像となってしまった彼であって、生きて向かい合う「汝」ではありません。

現在の「汝」との「今ここ」での出会い、「今ここ」での対話は、そのように過去化され、概念化された私の彼に関する映像を、むしろ「破壊」する出来事としての意味をもつはずです。

しかし未知数や、未決定に耐えられない人間は、また「今ここ」にも耐えられません。

「今ここ」という前述の交差点に立つという立ち方に対する聖書の要求のきびしさは、打ち消しがたい程のすさまじさをもっています。

というのは、あの選民の指導者モーセが約束の地に入国を許されなかった原因としてモーセ五書は、この点を鋭く指摘しているからです。

モーセは、過去の経験にしばられて、「今ここ」で語りたもう神の言葉に対して鋭敏性を欠き、そのことが「神の聖さ」をさし示さなかったこととして審かれています(民数記20:10以下)。

キリスト者に求められる対話の姿勢のきびしさに驚かされます。

【注】
約束の地に向かって砂漠を旅するうちに、イスラエル人は渇きに耐えられず、モーセに助けを求めた、そこでモーセが神に訴えをとりつぐと、神はモーセの手の杖で岩を打って水を出せといわれた(出エジプト記17:6)。

また再び民がモーセに渇きを訴えてモーセが神にうかがいをたてたとき、神は彼に、今度は「岩に命ぜよ」といわれた(民数記20:8)。

しかし、この時、モーセは過去に、岩を「打って」水が出た、という経験にしばられて、今回も、またその岩を打った、その行為が、彼の「そむき」として指摘されています。

つまり、モーセはこのとき、自己の経験によりたのんで、「今ここ」に語りたもう、新しい神の語りかけを、それとして聴きわける鋭敏性をにぶらせてしまったということです。

そして、そのことが、主なる神の「聖なること」を現わさなかったモーセの在り方として審かれているのです。

つまり、神の聖なることは、そのみ言に対する〈現在的聴従〉と不可分であるという真理が、そこに主張されているのです。


「問われる証言の構造」

キリスト者とは、キリストの「証人」です。

キリスト者の行為だけが「証し」といわれているのでもなく、またキリスト者の言葉だけが「証し」といわれているのでもありません。

キリスト者の存在、信仰も言葉も行為も、一切をふくむ、キリスト者の全存在が「証し」という意味をもつというのが、聖書の見方です。

「信仰は知識ではない」、「したがって信仰には神学はいらない」とか、「信仰のみを強調しても、行為を無視しては」というようなことがいわれ、それらが「分裂的に」考えられることが多いようです。

しかし聖書は、根本的見方からすると、決してそのような「分裂的な見方」をしていません。

信仰の事柄は、徹頭徹尾「全存在的」な事柄だからです。

聖書のさし示す神が、歴史の支配者でありつつ、しかもあくまでも「隠れて支配する神」として仰がれる者であることが銘記さるべきです。

キリスト者は、「見える支配」と「見えない支配」の間にはさまれ、顕われた人の支配の中に立ちつつ、隠れた神の支配を「見よ」とさし示すのです。

可見性「の故に」ではなく、逆に不可見的「であるにもかかわらず」さし示すのです。

そこに無限の逆説性と危機性がはらまれます。

証言者は「見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ」者であり、それが、それのみが「信仰によって歩く」ということの唯一の条件なのです(Uコリント4:18、5:1-10)。

【参考】
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(Uコリント 4:18)

「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。
人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。
わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。
それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。
この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。
死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。
わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。
神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。
それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。
目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。
わたしたちは、心強い。
そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。
だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。
なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(Uコリント5:1-10)


「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル11:1)
といわれるゆえんです。

そこにはつづいて、
「昔の人たちは、この信仰のゆえに賞讃された。
信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言で造られたのであり、したがって、見えるものは現われているものから出てきたのでないことを、悟るのである」
といっています。

この線上に浮かび上がってくるのは、神の約束実現の唯一の人間的条件として残されていた独り子イサクを祭壇に献げようとしたアブラハムの決断的応答であり、「約束の地」占拠に先立つカナン偵察にさいし、強敵カナン人を恐れず神の約束を信じて占拠の敢行を勧めたヌンの子ヨシュアとエフンネの子カレブ両人の決断であり、顕わな異邦権威にひるまず、全く不利な条件のただ中で「たといそうでなくとも」という文字通りの体当りを敢行したエステルや、ダニエル書のイスラエルの青年たちなど数えると限りがありません。

それら一切を特色づけるものは、「隠れた神の支配を、あたかも今此処に顕わに見るかのように決断する」という在り方であり、それはまさに人間の主体性の極限を示すものです。

「神は死んだ」といわせるような極限状況の中に投げ出され、あらゆる安全保証といわれるもの一切を剥脱された危機的境位、それが証言者の立たされている唯一の状況です。

したがって、証言者の主体性とは、常に「信仰的冒険」でしかあり得ないのです。

まさにそれは全存在的、「体当りの賭け」なのです。

そうした固有な存在意義を「証人」とよばれているキリスト者の急務は、まず「証人」という固有な性格と役目とを的確に握ることです。

使徒行伝は、その序文に、「教会時代」と、それに先立った、いわゆる「神の国宣教時代」とを峻別し、「神の国時代」を、「水のバプテスマ」という象徴をもってよび、続く「教会時代」を「聖霊のバプテスマ」という象徴をもって区別しています(使徒1:5)。

【参考】
「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒1:5)


そして、教会時代を、「聖霊の降臨」によって始まる時代とし、その教会に属する者を、「主の証人」または「主の復活の証人」とよんでいます。

昇天直前の主イエスは弟子たちに向かって、
「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けてーー地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒1:8)
といわれました。

以下、「証し」を、その「成立」と、「目標」とに分けてその構造をみてゆくことにします。

「証しの成立」

前掲の昇天直前の主の言葉からも明瞭であるように、「証し」は「証しされる者」(キリスト)と、「証しさせる者」(聖霊)と「証しする者」(キリスト者)とから成っています。

この三者は、その中のどれ一つが欠けても「証し」とはなり得ない、不可分な関係にあります。

しかもこの三者は断じて混同されてはなりません。

この三者は「区別さるべきだが、分離されない」関係にあります。

キリスト者にとっての先決問題は、どんな行為が、どんな実践が、というような「かた」(型)ではなく、むしろ、この三者の関係を正しく把握しておく、ということです。

新約聖書全体は、旧約聖書の預言に対応して「証し」を強調していますが、中でも、ヨハネによる福音書は、その記述内容からいっても「証しの神学」とよべるような性格をもっています。

ヨハネによる福音書が特に力を入れているのは、明らかに、この「証しされる者」「証しさせる者」「証しする者」の明確な峻別ということです。

そこには他の書ではバプテスマのヨハネとして登場するイエスの先駆者が、「証人」として紹介されています。

そしてその「証人ヨハネ」についてヨハネによる福音書は、
「ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。
その名をヨハネといった。
この人はあかしのためにきた。
光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである」(ヨハネ1:6-8)
とのべ、イエスは光そのものである「被証言者」として、光についてあかしする「証人」ヨハネを、「光ではなく」と全く異なった秩序に属する者として峻別しています。

しかもその「証し」をするためには、聖霊の力が不可欠だというのです。

ですから、聖霊こそ、「証言させる者」ひいては「原証言者」なのです(使徒1:8、2章全体、殊に4節、17節、4:8、4:31など)。

【参考】
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。
そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)


「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒2:4)

「『神は言われる。
終わりの時に、 わたしの霊をすべての人に注ぐ。
すると、あなたたちの息子と娘は預言し、 若者は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒2:17)

このような三者の峻別はいったい何を意味するでしょうか。

第一は、神と人、ひいてはキリストと人、「証言される者」と「証言する者」との「断絶」ということです。

キルケゴールは、神と人との関係を、連続的に、したがって汎神論的に考える方向から峻別して、キリスト教の考え方を、「神と人との質的断絶」ということばで表現しました。

あの創造物語の中のエデンの原人の記事が示すように人間の心の中には、一切のものを自己の支配下におきたいという支配欲、または権勢欲というものがひそんでおり、その結果、人間の限界を越えて「神の如くなりたい」という欲求が頭をもたげやすいのです。

したがって、くり返しくり返し、人間は、神と人との峻別の不可欠性を心にいいきかせる必要があります。

キリスト者といえども、つねにできる限り自己を拡大し、その結果、神を縮小させるという誘惑にさらされているからです(バルト)。

それは何を意味するでしょうか。

人間は本来、いやしがたく「人間中心主義」であるということです。

キリスト者とは、自己が、いやしがたく「人間中心的」であることを知るとともに、聖書が、徹頭徹尾「神中心的」であることを知らされている者なのです。

いうまでもなく、聖書が徹頭徹尾「神中心的」である、というのは、人が全く「神中心的」にさせられることなくしては、真に人としての高く・深く・広い可能性を生かすことはできないからなのです。

人はしかし弱いので、いつしか、あの行為、この実践を通して、自分を超えたキリストをさし示さず、自分自身を人の前に顕示し、自分に栄光を帰してしまいます。

第二は、「証し」はどこまでも「証しさせられる」ことであって、それゆえに、「作為的」(意識的)であってはならない、ということです。

この点に光を投げるのは、「再臨の主」による「最後の審判」の基準です。

マタイによる福音書は、それを、「祝福された群れ」(正しい人たち)と「呪われた群」の問いとして次のようにしるしています。

「『人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、 羊を右に、山羊を左に置く。
そこで、王は右側にいる人たちに言う。
《さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。》
すると、正しい人たちが王に答える。
《主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。》
そこで、王は答える。
《はっきり言っておく。
わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。》
それから、王は左側にいる人たちにも言う。
《呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。》
すると、彼らも答える。
《主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。》
そこで、王は答える。
《はっきり言っておく。
この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。》
こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。』」(マタイ25:31-46)

ところでこの記事は、イエスの頭に香油を注ぎかけた女の物語によって続けられ、その女の行為をめぐる弟子と主イエスとの会話によると、弟子たちの示した「打算的」意識が主によって退けられ、「非打算的」 な、即ち感謝から溢れたーーやむを得ずさせられた動機ともいうべきものが主によってよみされたものとみています。

こういうと、同じマタイによる福音書の第五章(山上の垂訓)の、
「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」
という言葉は一見、さきのことに矛盾するようです。

しかし、その前後関係の記事からみて、そこには、
「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい」
という忠告の反復、また山上の垂訓が、人間の自己充足とは反対のことを強調しているという点からも、個々の行為における自意識を語っているのではなく、その生活方針が、つねに自己のためでなく、「神の栄光」を求めるべきことに重点をおいていることがわかります。

「証しの目標」

ヨハネによる福音書によると、バプテスマのヨハネは主の証人であり、自分をではなく、主ご自身をさし示して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」といって、その指先を主に向けています。

ヨハネによる福音書は、その「自己を超えた他者をさし示す」という「証し」の意義を、それから徐々に段階的に、より深く掘り下げていきます。

ヨハネによる福音書の第二章にはガリラヤの「カナでの婚礼の宴」の記事がしるされています。

それによると、その母に対していつになくきびし過ぎるイエスの言葉がしるされ、誰しもある異様なものをそこに感じさせられます。

その母に対して主イエスが、
「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。
わたしの時は、まだきていません」(ヨハネ2:4)
という抵抗をふくむ言葉を語っているからです。

しかもそのあとで、僕(しもべ)たちに主は、
「かめに水をいっぱい入れなさい」
と命じているのです。

ぶどう酒を欲する宴席に対して「水」、いったいこれは何を意味するのでしょう。

「証し」となる行為とは、人間の処理可能な行為ではなく、どこまでも「隠された神の支配」、ひいては「隠された時」を待つ行為だということです。

かめの水が「ぶどう酒に変えられる」ということは神の側の行為であり、それは、ただ神のよしと見たもうときに生起するのです。

人間が勝手にそれを処理することは絶対に出来ないのです。

だが、人間が何もしないというのではありません。

「かめの水がぶどう酒に変えられる」、上からの働きを仰ぎのぞみつつ、そのかめの水をみたす、という、下からの出来うる限りのことをして待つということです。

しかしヨハネによる福音書はそこで留まってはいません。

自己をではなく、自己を超えた他者、キリストを指さす、という「証し」が、何を意味するかを、さらに鋭く指摘するため、ひとりのユダヤ人と、バプテスマのヨハネの弟子との争論の記事をもってきます。

「先生(バプテスマのヨハネ)、ごらん下さい。
ヨルダンの向こうであなたと一緒にいたことがあり、そして、あなたがあかしをしておられたあのかた(主イエス)が、バプテスマを授けており、皆の者が、そのかた(主イエス)のところへ出かけています」
という弟子の訴えに対し、バプテスマのヨハネは、
「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない。
『わたしはキリストではなく、そのかたよりも先につかわされた者である』
と言ったことをあかししてくれるのは、あなたがた自身である。
花嫁をもつ者は花婿である。
花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。
こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。
彼は必ず栄え、わたし(証人バプテスマのヨハネ)は衰える」(ヨハネ3:27以下)
と答えたとしるしています。

光をさし示すということは、光の源をさし示すということです。

光の源がさし示されるということは、それ以外のものは、絶対に光そのものではない、という否定的宣言を下すことを意味します。

それは、この記事にすぐ先立って。
「しかし、真理を行なっている者は光に来る。
その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである」
といわれているところにより暗示されます。

「証し」の目標は、光そのものである光源キリストをさし示すことです。

証人の役目は、彼から人々の注意が離れて、その証人のさし示す指先の彼方に立つ「被証言者」キリストに、すべての人々の目がすいよせられるということ、したがって、証人は人々から忘れ去られるべき運命にあるというのです。

ヨハネによる福音書はなおさらに進んで、この一点を強調するため、サマリヤの女のあかしの記事に次のようにしるしています。

「そしてなお多くの(サマリヤの)人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。
彼ら(サマリヤ人たち)は女に言った、
『わたしたちが信じるのは、もうあなた(サマリヤの女)が話してくれたからではない。
自分自身で親しく(イエスから)聞いて、この人(イエス)こそまことに世の救主であることが、わかったからである』」(ヨハネ4:39以下)。

確かに、サマリヤ人がイエスの許へつれてこられたのは、このサマリヤの女の語った誘いの言葉によったのです。

しかし、その女の「証人」としての目標は、自己にではなく、キリストにあるゆえに、彼女が人々から忘れ去られ、否定される時にこそ、達成されたといわねばなりません。

あまりにも有名なイタリアの画家レオナルド・ダ・ヴィンチは、『ヨハネの手』と題する画をかいています。

その画面には、ヨハネの上半身が一杯に描かれていますが、よくみると、その画の中心は、その右手の指先きにあることがわかってきます。

この手は指に集中されています。

彼の指は、彼自身をではなく、その画には顕わされていないキリストを、「見よ」と指さしているのです。

この指は実に不思議な指です。

なぜなら、この指は、そのさす方向のゆえに画面に顕わされた証人ヨハネから、見る者の注意を引き離し、かえって画面からは全く隠されたキリストを彷彿とさせる、きわめて動的な働きをする指だからです。

この指の働きとは、「顕わされた証人ヨハネは隠されるためであり、隠された被証言者キリストは顕わされるためである」という、実に驚くべき「証し」の逆説的構造を象徴しています。

ダ・ヴィンチは、この「指」に、証人としてのキリスト者の全含蓄を語らしめたのです。

前述の引照の示すように、真理を行なうことが即ち光の源を源として認め、さし示すことであるなら、それは自らは忘れ去られ、衰えることにおいて、孤独と歓喜の逆説的結合を体認させられることに他ならないというべきでしょう。

「対話としての聖書」


現代の宇宙開発は、まさに科学文明の勝利の象徴であり、あらためて人間のうちにひそむ知的可能性に対して驚きの眼をみはらせます。

しかしながらそのような科学文明のめざましい躍進とはうらはらに、社会生活のあらゆる分野での、どうにもならない行きづまりが、暗い影を濃くしています。

その暗い影とは何でしょうか。

ある歴史学者は、それを「機械文明とモラルのアンバランス」(不均衡)として指摘し、ある哲学者はそれを「聖なるものを見失った技術文明」として批判しています。

それがいわゆる「人間不在」または「人間疎外」とよばれている現代の世界共通の悲劇です。

その意味では、人間復興、または人間解放をもって始まった文芸復興(ルネサンス)以来の歴史は、皮肉にも「人間喪失」の歴史に他ならなかったということになります。

それではこの悲劇の病根ともいうべき「人間不在」とはいったい何を意味するのでしょうか。

それは他でもなく「主体性の不在」「主体性の喪失」ということです。

「主体性」とは、自由意志を与えられている人格として、その選択に対して責任を負うべき自主性を意味しています。

機械文明は、その圧倒的な勢いで、人間をも機械の一部にしてしまい、すべての人間を画一化し、水平化してしまうような状況を生み出してしまいました。

またそこには「数は力である」という物量偏重的法則が支配する結果、個人は群衆のかげにかくれやすくなり、その結果は、個人的責任感の喪失という恐ろしい現象がはびこってしまっています。

「主体性の喪失」とは、先に記した「汝」の喪失であり、したがってそれは「対話の喪失」です。

聖書は「人間の喪失した主体性回復の歴史」書であるといえます。

なぜなら聖書は、何ものによっても束ばくされることのない絶対主体である神が、人間の失った「真の」主体性回復をめざして始めたもうた人間との対話の形でしるされているからです。

くり返しのべるように、証し人としてこの世に生かされているキリスト者は、見える社会での人と人との在るべき水平的関係は、見えない神との垂直的関係の確立とともに、立ちもし、倒れもすることの身をもっての証し人なのです。

したがって、その垂直関係は、対話としては、「絶対主体と相対主体」との対話という形をとります。

「神との対話」と口では簡単に言えますが、実はこれは全く不可能に等しい、事柄なのです。

結論的にいうなら、人間はいやしがたく「人間中心的」であるという事態に立脚しています。

人間がすべてにおいて「人間中心的」である、ということほど当然なことはありません。

しかしこのことは、何を意味するかというと、人間があらゆることの判断の「物さし」「尺度」になる、ということです。

個人をとってみれば、一人一人がその好き嫌いにおいて、趣味において、評価において、推論において、予想において、期待において、どんなにいやしがたく自己中心的であるかを気づかせられています。

鉛筆のけずり方から本の開き方、買いもののさいのつり銭の計算のし方からはじめて、習慣の差違を発見すると、各国民は自国民の方を標準として、他国のそれを「反対」または「逆」現象として評価してしまいます。

自己の側を「基準」とし、自己の尺度を「物さし」として測る、というこの人間の宿命的傾向は、自分以下のものに対して適用されるときはまだ無難であっても、それが自分と同等または自分以上の存在に対してまで向けられる、というところに、人間最高の悲劇の源があるのです。

人間が自己を尺度とし、物さしとし、評価の基準としているということは、自己をすべてのものの上位において、自己を「主人」公としていることに他ならず、その結果、他のものを「主体に対している客体」としてみる、すなわち図式でいえば、他のものを自己が眺め、評価でき、左右でき、支配でき、処理できる「それ」にしていることになるからです。

ところが、生きた神は、絶対に他の何ものによっても支配されたり、処理されることのない「絶対主体」なのです。

すると、人間は、自己をすべての評価の基準としている限り、神という絶対主体者に対しては、恐るべき「主客の転倒」においてあるという致命的な関係にあることになります。

詩篇の一節は、このような人間の愚かさを次のように指摘しています。

「あなた(人間)がこれらの事(そしり、ののしり)をしたのを、わたし(神)が黙っていたので、あなた(人間)はわたし(神)を全く自分とひとしい者と思った」(詩篇50:21)。

もし豚が神を作るとしたら、豚に似せて作るだろう、という諺は、人間に対する致命的な皮肉です。

人間が作り出す神、人間が頭の中で考え出す神は、せいぜい人間にとって「都合のよい」神にちがいありません。

「人間中心的」であるところには、「ご利益的」ということが金輪際ついてまわります。

絶対主体である神は、「神中心的」ということが確立されるところにしか仰がれず、そのような神は、「人間中心的」という在り方の含む致命的な「主客転倒」がそれとして審かれなければ、絶対に仰がれないということに眼を集中することが要求されます。

このような主客転倒からの回復は、いうまでもなく、人間の力のおよぶところではありません。

上からの力、それこそ聖霊の力による他ありません。

しかし、聖書はその中に、聖霊が働いた時に出来事となる主客転倒の結果の原型をいくつか現象的にのべています。

第一は、絶対主体である神は「包越者」として示されています。

神は私ども人間がその外に立って第三者として眺めたり、評価したりできる客体(それ)ではなく、反対に、考えたり、悲しんだり、喜んだり、予想したりする人間が、「その中に」在らしめられている絶対主体であることを告げています。

哲学の都とよばれるギリシアのアテネで、神を暗中模索しつつある人びとに向かってパウロは、天地の主について、
「われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである」(使徒17:28)
と説きあかしました。

このように、私ども人間を、その中に包みつつ、しかも人間とは質的に異なり、これを超えていたもう神とは、すべてに対して自らを「先行者」として在りたもう絶対主体です。

このような神は、私ども人間が求めて初めて出会って知るというようなものではなく、むしろ神の方が、私どもの求め、知るに先き立って、私どもひとりびとりを知っていたもう、という関係です。

詩篇の作者は、この関係について、
「主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。
あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。ーー
このような知識はあまりに不思議で、わたしには思いも及びません。
これは高くて達することはできません。
わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。
わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。ーー
わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされたとき、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった」(詩篇139)
と歌っています。

人が信仰を与えられるまでの経過を、常識的に考えればそれは、その人が、自力で門を叩いて求めてきたのだといえます。

しかし、ひとたび信仰を握らせられたとき、人が発見させられることは、例外なしに、自分が求めるはるか前にまず神ご自身が私を求めつづけたもうたのだ、したがってあの経験も、この出来事も、みな今日の「この時のため」に不可欠だったのだ、という意味での「主客転倒」です。

肉親に別れ、人影の絶えた砂漠を旅するヤコブが、日暮れに石の枕に束の間の眠りをとったとき、彼から最も遠く思われていた神の声を、いと近く耳許できいて、眠りからさめたヤコブは、
「まことに主が、この所におられるのに、わたしは知らなかった」(創世記28:10以下)
と告白させられました。

旧約聖書は、選民イスラエルが、その選び主である神に対して投影した、彼らの浅く・低く・狭く・卑しい前提を含んだ枠を破りつつ、自己の深さ・高さ・広さをもって答えたもう絶対主体なる神をそこに仰がせる出来事に満ちています。

このことはとりもなおさず、人間がいかに骨のズイまで「人間中心的」であるかを示します。

ところで新約聖書においても、この点に鋭くきびしい照明があてられているのには驚かされます。

イエスの許に最後までいた十二弟子は、いずれも多くの弟子たちが去ってしまったのちの、いわば信仰的に淘汰されたえりぬきの人びと、即ち献身的な群れであったはずです(ヨハネ6:60-66)。

【参考】(信仰的淘汰)
「『わたし(イエス)は命のパンである。
あなたたち(イスラエル・ユダヤ人)の先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。
しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。
わたしは、天から降って来た生きたパンである。
このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。
わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。』
それで、ユダヤ人たちは、
『どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか』
と、互いに激しく議論し始めた。
イエスは言われた。
『はっきり言っておく。
人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。
これは天から降って来たパンである。
先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。
このパンを食べる者は永遠に生きる。』
これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。
『実にひどい話だ。
だれが、こんな話を聞いていられようか。』
イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。
『あなたがたはこのことにつまずくのか。
それでは、人の子がもといた所に上るのを見るなばーー。
命を与えるのは“霊”である。
肉は何の役にも立たない。
わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。』
イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。
そして、言われた。
『こういうわけで、わたしはあなたがたに、
《父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない》
と言ったのだ。』
このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」(ヨハネ6:48-66)


しかし、それにもかかわらず福音書は、彼らの間に最後までつきまとった仲間同士の勢力争いについてはばからず言及しています。

そしてルカによる福音書にいたっては、イエスの受難直前の過越の食事の時においてさえ、
「自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った」(ルカ22:24)
ことを指摘しています。

また、
「たとい、みんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません」、
「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」
と主に誓った弟子たちの代表者ペテロが、イエスを裏切ってのち、
「にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないというであろう」
といわれたイエスの言葉を思い出し、そして思いかえし泣きつづけたことをしるしています(マルコ14:29-31、14:72)。

イエスを拒んだのはペテロだけではありません。

そのイエスの受刑のときに、
「ある若者が身に亜麻布をまとって、イエスのあとについて行ったが、人々が彼をつかまえようとしたので、その亜麻布を捨てて、裸で逃げて行った」(マルコ14:51)
ことまで細かく言及されています。

こうして、福音書は、自力による人間の献身というものの虚構性をあばき、本来の人間のもつ、いやしがたい「人間中心性」を余すところなく照らし出すことによって、自己以外の主を主とするということ、神を神として、神を「汝」として対することが、聖霊による主客転倒の革命的出来事でしかないことをさし示そうとしています。

それの結論としていわれているのが、
「聖霊によらなければ、だれも、『イエスは主である』、と言うことができない」(Tコリント12:3)
という言葉です。

生まれつきのままの人間の自力によっては全く不可能なこの「主客転倒」が、すなわち「新しく生まれる」という出来事であり、人間にとっては全く「処理不可能」な「他者である汝」の自由の働きかけです。

それを示すのが、
「あなたがたは新しく生まれなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。
霊から生まれる者もみな、それと同じである」(ヨハネ3:7-8)
という主イエスのニコデモにいわれた言葉です。

バプテスマ(洗礼)とはこのしるしです。

いやしがたく「人間中心的」な人間において、上からの聖霊による「主客転倒」は、そのまま人間における「価値転倒」の出来事を結果させずにはおきません。

人間はそれぞれが価値体系の所有者であるということができます。

信仰はそれが主客転倒を意味する限り、信ずる者の中に価値の革命的転換を呼び起こします。

主客転倒が聖霊の力によって生起させられるとき、人間中心的発想法は、神中心的発想法に対しては反逆的なものであることを知らされ、そこに、神中心的価値判断による人間中心的価値判断の克服の方向づけが与えられます。

このような、主客転倒による価値転換の出来事をパウロは次のように告白しています。
「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。
わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。
キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものをふん土のように思っている。
それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づく神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」(ピリピ3:7以下)。

このように、聖書のさし示す神と人間との垂直関係、大文字の「汝」との対話は、傍観者の知識的操作でも、空虚な概念の遊技でもなく、主客転倒の「出来事」です。

「創造主からの問い」

「隠れみの」という言葉があります。

この「隠れみの」を着るということは、普通はある特定の人に対してつかわれる形容詞ですが、しかし実はそうとは限りません。

日常、あるがままの人間の姿が、あらゆる意味で、自己をおおいかくしてしまっている姿だからです。

【参考】
「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。
女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。
アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、 主なる神はアダムを呼ばれた。
『どこにいるのか。』
彼は答えた。
『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。』」(創世記 3:6-10)


お化粧ばかりが「隠れみの」ではありません。

裸をおおう衣服、夫の社会的地位、妻の家柄、財産、技能、才能、何々の肩書き、資格等には、私どもが知らず知らずのうちにそれに依存してしまい、それによって自分が何か値打ちのある者であるかのような錯覚におちいり、本来の私どもの裸の現実をおおいかくすような「隠れみの」となっています。

しかし、フト死に直面したとき、自分の場合はいうまでもなく、他人の死でも、そこに一個の何ものもおおわない裸な人間、一切のこれまでの生涯の「隠れみの」をはぎとられてしまった、しかも誰も私に代わってそれをひきうけてくれない私の死を、避けられない現実としてあばき出されます。

いうまでもなく、それを直視するにたえない私どもは、何とかしてそれから目をそらし、少しでも長くそれから遠ざけてくれるものを追い求めつづけないではいられません。

死ということが、人間を徹頭徹尾「裸」にしてしまうことを意味するように、私どもがつけているその「隠れみの」が、絶対にその前では役に立たない存在者があります。

それが聖書のさし示す「創造主」としての神です。

端的にいえば、聖書の仰がせる神は、あくまでも「選び主」としての神であり、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」といわれているように、また「天地の造られる前からキリストにあって」教会を選びたもうた神ですが(エペソ1:4)、それと等しく強調されているのは、彼が「宇宙の創造主」でいますということです。

創造主でありつつ、選び主でいます、というこのことは、神の両性格、すなわち選び主としては具体的歴史的人間と結びつく神の内在面を、創造主としては、あくまでも他の一切からの超越面を示すといえます。

つまり神は独り創造主として他の一切のものは、造られた被造物として、質的に区別されるということにおいて、それが神と人との神秘的合一を求めるいわゆる汎神論とか、精神と自然との根源的同一を主張する思想との差異が強調されています。

端的にいえば、創造主と被造者という聖書記述の強調は、神と人との合一ではなく「区別」におかれているということです。

創造主を仰がせる創世記の冒頭の記事はおよそ現代ばなれした神話をもってつづられています。

そこで読者に要求されることは、聖書全体の語るところに目をそそぎながら、このような表現を通してしかさし示すことのできない何を語ろうとしているかを、その表現に即しつつさぐるということです。

そこには人間は他の一切の被造物の中でも、「神のかたち」にかたどって造られたもの、すなわち、「被造者」であって、その他の一切の被造物に対しては「治める」者といわれ、そこに人間の特異な位置づけがされています。

ところが、創世記によれば、創造主と被造者との人格的ーー主体関係は、まず次のような禁令のことばをもって始められています。

「主なる神はその人に命じていわれた、
『あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。
しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。
それを取って食べると、きっと死ぬであろう』」(創世記2:16-17)。

創世記が一書としては、「万民救拯の手段としてのイスラエルの選び」を語り、それは実は聖書全体を貫く救拯史の序奏にあたりますが、その創世記の主をのべるための前置きとしてこの創造主から被造者に対する語りかけがおかれ、しかもその後の展開が、この語りかけの「受けとり方」にかかるものとされていることは注視せざるをえません。

この創造主の禁令の言葉においてまず見逃してならない第一のことは、知識がそれ自体として取り扱われず、創造主から発した禁令と結びつけられているということです。

この言葉の意図しているところは、この言葉自体からは直ちに明瞭ではなく、むしろ、禁令に背いた原人の頽落した在り方から逆に暗示されるというべきでしょう。

原人は、へびの言葉にそそのかされたというのです。

つまり、原人は、無限に高い創造主の言葉を解釈するのに、自分たちより低い被造物の解釈によったということ、すなわち、彼ら原人は、創造主の言葉を創造主の言葉として解釈せず、その結果、「治める」べき者が、「治められる」べきへびに逆に治められてしまい、禁令をおかした結果は、「隠れみの」を求めざるをえなくなったというのです。

「彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。
そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した」と先に引用しました(創世記3:8)。

しかもこのように神の顔を避ける人間、「隠れみの」の中に身を隠そうとする人間に対して、主なる神は、なおも「あなたはどこにいるのか」、と呼びかけたもうというのです(創世記3:9)。

そしてその禁令を犯した行為をとがめられると、互いが互いを責めて、他者に責任を転嫁することしかしないというのです(創世記3:12-13)。

【参考】
「神は言われた。
『お前が裸であることを誰が告げたのか。
取って食べるなと命じた木から食べたのか。』
アダムは答えた。
『あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。』
主なる神は女に向かって言われた。
『何ということをしたのか。』
女は答えた。
『蛇がだましたので、食べてしまいました。』(創世記 3:11-13)


原人のこのような責任回避、すなわち主体性を失った在り方が、実は禁令をあえて犯した結果としてのべられたことにより、この禁令のかくされた意図が逆に照らし出されてきます。

すなわち、神を神として、神の言葉を神の言葉として恐れるということを離れた善悪の知識は、人間を責任感の喪失、したがって主体性喪失という人間喪失にみちびくということがそこに警告として語られているのです。

それなればこそ聖書はくり返しくり返し、「主を恐れることは知識のはじめである」と強調しています(箴言1:7、2:5、3:7、8:10、その他伝道の書)。

「主イエス・キリストを身にまといなさい。
欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」(ロマ書13:14 )
とは、これらへの新約的勧奨です。

そこで、神との対話において求められる第一のことは、神の言葉が、神の言葉として聞かれるということであり、それは、神の言葉が、創造主の言葉として聞かれるということです。

そして神の言葉が創造主の言葉として聞かれる、ということは、創造主の言葉は、被造者の想像や思いを越えた、まさに、被造者からは測り知ることのできないものとして聞かれる、ということです。

すなわち、神の言葉は、人よりも無限に広く・深い創造主のおもんぱかりを示すことに他ならないということです。

それを示しているのが、イザヤ書の次の言葉です。
「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、
わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。
天が地よりも高いように、
わが道は、あなたがたの道よりも高く、
わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ55:8-9)。

新約聖書では、この創造主と被造者との関係をパウロは次のような表象をもって語っております。
「ああ人よ。
あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、
『なぜ、わたしをこのように造ったのか』
と言うことがあろうか。
陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか」(ロマ書9:20以下)
彼は問い、かつ、
「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。
そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。
だれが、主の心を知っていたか。
また、だれが、まず主の計画にあずかったか」(ロマ書11:33以下)
という詠嘆の言葉を発しています。

創造主から被造者に語られた禁令の言葉は、以上のような、被造者の知恵からはとうてい測り知れない創造主の高く・広く・深い知恵と計画のそれとして聞かれるとき、そこには、創造主に対する真の恐れが、創造主に対する無限の「信頼」に変えられ、そのとき、この禁令は、創造主ひいては神を恐れるということから生まれるモラル(道義感)を失った知識欲が、自己の野望のためには他の人間をモルモットのような手段として用いることも恥じない致命的な病根であることを遠く見抜いた創造主の遠いおもんぱかりに他ならないものとして解されるでしょう。

神を恐れることを知らぬ知識欲は、対人関係としては、人を手段化するという恐るべき結果しか招きません。

それは「気違いに刃物」の例にもれず、知識という武器は、気違いにもたせた場合、それが切れ味がよければよい程危険率は大きいのです。

創造主の禁令が、他方、「信頼」においてうけとられない場合は、「邪推」としてしか解されません。

邪推とは、高い者に対する低い者の理解の自己投影です。

へびはへびの低さを、その解釈に投影します。

へびは女に、
「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:4-5)
といっています。

低い者は、高い者の思いを知りません。

いやしがたく前提的なのが私ども頽落した人間の宿命なのです。

そして私どものめいめいの前提は、それぞれの思いの低さ・浅さ・狭さ・卑しさを出ません。

したがって、より低い者が、より高い者を理解する道は、「信頼」という道しかないということです。

それが、さらに無限に高く・広く・深い創造主と無限に低く・狭く・浅い・被造者との間のそれである場合は殊更です。

こういう処理に思いをはせるとき、創造主に対しては、無限に低く・狭く・浅い人間社会から生まれた道徳的評価のし方、ひいては善悪の知識を、無限に高く・深い神のそれにあてはめようとすることが、いかに冒涜的なことであるかがわかるのではないでしょうか。

創造主を仰ぎ、創造主を創造主として恐れるということが知恵の始めであるということは、創造主のみが、あらゆる善悪の評価者であり、審判の根拠となるべき価値の根源であるからです。

創造主と被造者とのこのような根源的関係に目ざめ、その関係の自覚によって全存在が震撼させられることなくして、どうして私どもは「主の証人」として立てましょうか。

なお聖書は、創造主に対する被造者の「信頼」的在り方ひいては創造主との対話における被造者の「信頼」的応答が決してたやすく獲得できるものとみてはいません。

それは人間として陥りやすい「邪推」との血みどろな「闘争」を意味し、「信頼」はつねに「邪推」によっておびやかされつつ、かちとられるべき性格のものであることを、劇的に表現したのが旧約聖書のヨブ記だといえましょう。

ヨブ記は、義人ヨブの信仰の純粋性に関する神とサタンとの間の「賭け」という形で進められ、そのドラマは、
「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか」(ヨブ記1:9)
というサタンの挑戦をもって始められています。

そこでヨブに与えられたテストは、苦難の激化として展開し、全体四二章のうち、三七章までは、ヨブと彼の友人らとの対話、すなわち水平的対論で進められ、第三八章以下の五章のみが、ヨブと創造主との垂直的対論の形をとっています。

ヨブと友人との対論の焦点はしたがって「義人が何故苦しまねばならないか」ということです。

その水平的対論において特筆すべきは、その討論を通して、神はあくまでも、第三者的な「彼」としての神、として語られているに過ぎないということです。

議論がいかに語り尽くされても、何らヨブ自身の苦難の解決とはならないことを暴露した友人間の対論は、突如として、つむじ風の中からヨブに語りかけたもう創造主の、
「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか」(ヨブ記38:1-2)
という垂直的対論によって上から破られ、そこに初めて、創造主と被造者ヨブとの間に、主体的に、「私と汝」の対話が始められます。

このドラマのクライマックスは、このような創造主の語りかけに対するヨブの、
「わたしは知ります。
あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。ーー
わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今は私の目であなたを拝見いたします」
という答えに集約されております(ヨブ記42章)。

このように、ヨブ記は、苦難の解決は、創造主が創造主として仰がれるという根源的垂直的対話の出来事としてしか起こり得ないことを示していますが、このヨブの告白を通してヨブ記は、「義人何故苦しむか」という、水平的対論のうちにふくまれていた「義人なら苦難を受けるはずはない」という、人間中心的評価に基づく前提の審きを、語らせていることに驚きの目を見張らずにはおられません。

「選び主からの問い」

前回は「創造主」からの問いを書きました。

今回は「選び主」からの問いをみてみます。

「キリスト教は個人の魂の救いに関心をもつものだから、現代の要求する社会的救済に対しては無力である」という声がしきりにきかれてきましたし、今なおきかれます。

これはキリスト教、ひいては聖書が、現代の要求に「直接的な答え」を与えないという意味では、まさにその通りです。

しかし「直接的」に答えない聖書は、「根源的」に答えています。

したがって、時代の要求に対して聖書はむしろ「根源的な答え」を与えるためにこそ、「直接的な答え」を与えない、というのが正しいのです。

聖書の中に「美しの門」と呼ばれる「宮の門」の出来事の記事があります。

宮にはいろうとするペテロとヨハネに、生まれながらの足の不自由な男がほどこしを乞いました。

彼ら(ペテロとヨハネ)はこの彼(足の不自由な男)をじっと見て、
「わたしたちを見なさい」
といい、彼は、
「何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると、ペテロが言った、
『金銀はわたしには無い。
しかし、わたしにあるものをあげよう。
ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい』。
こう言って彼の右手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、踊りあがって立ち、歩き出した。
そして歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った」(使徒3:1以下)
としるされています。

なおこの「社会的救済」は、聖書によれば、宇宙の諸民族の「共存共栄」とされ、それが旧約聖書と新約聖書を貫く救いの歴史ーー救拯史ーーの目標としてかかげられています。

ただし聖書は万民の共存共栄ということは、宇宙諸族の創造主である神の支配が隅々まで徹底することなくしては絶対に実現不可能であると観、その隠れた歴史の主である神の支配を身をもって証しするためイスラエル民族を選びたもうたことを告げております。

創世記は、万民共存共栄の目標に向かって選ばれたイスラエルの祖・アブラハムに対して語られた神の言葉を次のようにのべております。
これを「神の根源約束」といいます。
「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。(国土獲得)
わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。(子孫繁栄)
あなたは祝福の基となるであろう。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。
地のすべてのやからは、あなたによって祝福される(万民福祉)」(創世記12:1-3)。

【参考】
神の根源約束について詳しくは、


この選民に対する言葉を始めとして、聖書は「創造主かつ選び主」としての神を語り、この神と出会うということは、即ち、この神においてその神の愛の対象である全人類と出会うことであり、したがってこの神との対話はとりもなおさず、全人類との対話の基礎であることを告げています。

否、全世界の救拯のための「選び」こそ、全聖書を貫く根本主題といっても過言ではありません。

なぜなら旧約聖書は、創造主がイスラエルの選び主として自らを啓示したもう歴史であるとすれば、新約聖書はキリストにおいて教会、ひいてはその肢であるキリスト者の選び主としての神の自己啓示の歴史であるからです。

「ほむべきかな、わたしたち(教会)の主イエス・キリストの父なる神。
神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたち(教会)を祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたち(教会)を選び、わたしたち(教会)に、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである」(エペソ1:3-5)
としるされている通りです。

このような言葉によって、「証し人」としてのキリスト者とは、「キリストにある者」ですが、「キリストにある者」とは、実は「キリストにあって天地の造られる前から選ばれた者」であることを告げ知らされます。

その意味で、「選び」ということの意味の把握に徹することなくしては、「証し人」として立つことは出来ないというべきでしょう。

そこで以下「選び主」との対話を通して、証し人として深められるべき自覚の内容を、⑴賜物としての選び、⑵確かさとしての選び、の二点にしぼってみることとします。

⑴「賜物としての選び」

聖書の使信、ひいては福音が、律法によらない「信仰義認」であるとされるのも、「あるべし」という志向としての「当為倫理」ではなく、「あるがごとくなれ」という「存在倫理」の志向であるとされるのも、一に,「負われた」がゆえに「負う」者とされ、「赦された」がゆえに「赦す」、「愛されて・愛す」、「捉えられて・捉える」という構造を内に孕むからです。

「われわれが証人であるということの持つ問題は、『われわれは自分の受けたものに対して、充分に感謝しているか』ということである」とは、味わうべきバルトのことばです(カール・バルト著、井上良雄訳『啓示・教会・神学』新教出版社)。

前述のキリスト者の選びが、「みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前からキリストにある」選びであるということは、この選びにより、キリスト者は神の子という「身分」を、精進努力の結果として勝ち取ったのではなくーーすなわちそれを受けるにふさわしいのでに得たのではなくーーそれはふさわしくないのに与えられた、という意味で、その選びは、「報酬」ではなく「賜物」です。

ここでもまた 、すっかりこの世の習慣で、功利的に洗脳されてしまった人間には、容易にのみこみにくい神独自の発想にぶつかります。

注意してみると、聖書の発想は始めから終わりまで、この句のさし示している図式、すなわち「賜物の先行」という発想によって貫かれていることを見出します。

イスラエルの選民教育の目標も、「あなたがたはすでに選ばれているのだから、その選びにふさわしくなれ」ということ、すなわち、「賜物に先き立たれた課題」の主体的把握の一点におかれていました。

「見よ、天と、もろもろの天の天、および地と、地にあるものとはみな、あなたの神、主のものである。
そうであるのに、主はただあなたの先祖たちを喜び愛し、その後の子孫であるあなたがたを万民のうちから選ばれた。
今日見るとおりである。
それゆえ、あなたがたは心に割礼をおこない、もはや強情であってはならない」(申命記10:14以下、11:7-8など)
といわれています。

選民とはいえ、イスラエルも、人間的な、あまりにも人間的な民族です。

「選び」の根拠が、選ばれたものの固有な価値によらず、ひたすら「選び主」の自由な恵みによるという高度に危機的な理解にたえなかったイスラエルは、その「選び」を、いつか「特権」にすりかえてしまいました。

イエスが彼を信じたユダヤ人たちに、
「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。
また真理を知るであろう」
と語った時、
「わたしたちはアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは、一度もない。
どうして、あなたがたに自由を得させるであろうと、言われるのか」
とか、
「わたしたちは、不品行の結果うまれた者ではない。
わたしたちにはひとりの父がある。
それは神である」(ヨハネ8:31-33、8:41)
と反発したユダヤ人において、彼らの血に流れている醜い特権意識が暴露されています。

「選び」が特権意識、エリート意識として自覚されるべきでないとしたら、それは「ふさわしくない者の選び」、すなわち、「賜物としての選び」の自覚であるべきです。

そして「賜物としての選び」とは「無きに等しい者の選び」に他なりません。

「神は知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれた」(Tコリント1:27以下)
のです。

この「無きに等しい者」は、聖書によれば「負債感」をもつ者であり、「負債感」をもつその度合いに応じて神から受ける祝福と感謝が大きいことを聖書は約束しています。

ルカによる福音書によるとイエスは、自らを貧しい人々、囚人、盲人、打ちひしがれている者に自由をえさせる者ーー「主のめぐみの年」を告げ知らせる者として告知したまいました(ルカ4:18以下)。

ところでこの「主のめぐみの年」とは、旧約聖書のレビ記の語る「ヨベルの年」を意味しています。

イスラエルで、その社会生活において不可避的におこる貧富の格差を是正するため設けられた「ヨベルの年」とは、負債が無条件に解消されるという意味で「めぐみの年」であり、したがって、その年には、「負債の多い者ほど祝福される」という価値転倒を意味しました。

十字架の主を罪を赦す「ヨベルの年の告知者」として告白するルカによる福音書が、罪を「返すことのできない負債」として示し、負債感のないパリサイ人と正反対に、その「返すことのできない罪の負債」が主によって赦された感謝の証しを、罪ある女の献げた香油をたたえる石膏のつぼに象徴して描いたことはきわめて印象的です(ルカ7:36以下)。

私どもの貧しい証しが、「神に対するキリストのかおり」となるとはこんなことを意味するのです。

【参考】
「さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。
この町に一人の罪深い女がいた。
イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。
イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、
『この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。
罪深い女なのに』
と思った。
そこで、イエスがその人に向かって、
『シモン、あなたに言いたいことがある』
と言われると、シモンは、
『先生、おっしゃってください』
と言った。
イエスはお話しになった。
『ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。
一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。
二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。』
シモンは、
『帳消しにしてもらった額の多い方だと思います』
と答えた。
イエスは、
『そのとおりだ』
と言われた。
そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。
『この人を見ないか。
わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。
あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。
あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。
だから、言っておく。
この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。
赦されることの少ない者は、愛することも少ない。』
そして、イエスは女に、
『あなたの罪は赦された』
と言われた。
同席の人たちは、
『罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう』
と考え始めた。
イエスは女に、
『あなたの信仰があなたを救った。
安心して行きなさい』
と言われた。」(ルカ7:36-50)


⑵「確かさとしての選び」

「天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ55:9)
というイザヤの言葉がさし示している、人の思いを無限に超えた神の思いの前に、あらためてひれ伏させるのは、聖書を貫く、独自な「選び」の含蓄です。

神の「選び」について聖書がまず明らかに告げているのは、選びの根拠は、「選び主」の側にある、という一事です。

神の「選び」は、選ばれる者の側に根拠をもたない、したがって神の選びは、選ばれる人間のもつ「価値」によるものではない、というのです。

選民イスラエルに対してモーセは、
「あなたはあなたの神、主の聖なる民である。
あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。
主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。
あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった」(申命記7:6-7)
ことを想起させています。

新約聖書のローマ人への手紙も、神の「選び」の根拠が、選ばれる者の側の業とか、いさおしとか、価値によらない、ということを次のようにのべています。
「まだ子供らが生まれもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、わざによらず、召したかたによって行われるために、
『兄は弟に仕えるであろう』
と、彼女(リベカ)に仰せられたのである。
『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』
と書いてあるとおりである。ーー
神はモーセに言われた、
『わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ』。
ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである」(ロマ書9:11以下)。

「善も悪もしない先の選び」ひいては「生まれる前からの選び」に対応するエペソ人への手紙は「天地の造られる前からのキリストにある選び」です。

ここに、選ぶねうちのある者のみを選ぶことしかしらない、社会の常識に洗脳されてしまっている私どもにはとうてい理解しがたい神の選びの本質が明示されています。

しかし、これ以上に注意をひくことは、信仰の「確かさ」、ひいては「人生での確かさ」ということは、この「選び」の根拠が、ただ「神の側」ーー「選び主の側」のみにある、という一点を措いては何もないということです。

パウロは、
「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。
神は彼らを義とされるのである。ーー
わたしは確信する。
死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」(ロマ書8:33以下)
という言葉に、絶対的「確かさ」の根拠が、この神の「選び」にあることを力説しています。

自分の浅さ・低さ・狭さ・卑しさ弱さ、すべてに絶望し、うなだれている私どもをその一切のみじめさにもかかわらず再び立ち上がらせるのは、その弟子たちに向かっていわれた主の、
「あなたがたがわたしを選んだのではない。
わたしがあなたがたを選んだのである。
そして、あなたがたを立てた」(ヨハネ15:16)
という御言でしょう。

証し人としてのキリスト者の一切は、その選びの根拠がただひたすら「選び主」の側にある、という一点の確認とともに立ちもし倒れもするというべきです。

聖書において「選び主」と出会い、対話させられることが、あふれ出る感謝の証しの源泉であり、証し人を立たせる確かさの根源であるといえます。


nhk 「歴史の主からの問い」

「創造主からの問い」「選び主からの問い」と書いてきましたが、ここでは「歴史の主からの問い」をみます。

キリスト者とは、隠れて歴史を支配する神を仰ぐ者の姿です。

そのことから、当然キリスト者は、そのような神を知らないこの世の人々とは違う歴史の見方、歴史の解釈をさせられつつ生きる者です。

隠れて歴史を支配したもう神を仰ぐ者の日々交わす他との対話は、このような意味で、「証し」とならざるを得ないはずです。

そもそも人が生きてゆくということは朝から晩まで、否、生まれた時から死ぬ時まで、さまざまの予想できない出来事の中で生きてゆくということです。

犬や猫とちがって、人は、それらをただ受身の姿で通り過ぎようとはしません。

とくにそれがどうしても避けることのできないものである場合、人はその中に、何らかの「意味」を見出さずにはいられないのです。

その代表的なものとして聖書があげているのは、旧約聖書の中の、義人ヨブの場合です。

ヨブは最悪の境遇に追いこまれながら、苦痛に耐えぬく覚悟においては、すさまじいまでの姿を示しております。

「わたしは裸で母の胎を出た。
また裸でかしこに帰ろう。
主が与え、主が取られたのだ。
主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)。

ところが、つづく彼の苦闘というのは、肉体の苦痛をはるかに超えて、「何故自分が苦しまねばならないのか」という苦痛の「意味づけ」でした。

その意味さえ分かれば、というもがきがあるのです。

さてそこで「歴史」ということも、それは何か個人なり集団なり、民族なりが経験したであろう、過去の出来事そのものというより、その出来事のもつ「意味」、ひいては、さまざまの出来事相互の関係づけであり、「解釈」であるということが出来ます。

そうなると、大事なのは、出来事を「何によって」意味づけるか、「どういう角度から」解釈するか、ということになります。

聖書はすでに書いたように、神を「創造主なる神」「選び主なる神」としてさし示すとともに、また「歴史の主なる神」として仰がせています。

「イスラエルの神、救主よ、まことに、あなたはご自分を隠しておられる神である」(イザヤ書45:15)
といわれているように、聖書のさし示す「歴史の主なる神」はいうまでもなく、見える歴史の支配者ではなく、「隠れて働く」歴史の支配者です。

聖書の仰がせる「歴史の主」なる神は、「神は死んだ」といわせるまでに、自らを隠して働きたもう歴史の主です。

そこに
「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル11:1)
というヘブル人への手紙の言葉が生きて響いてきます。

信仰によって歩むという生き方は、未だ現実とはなっておらず、したがって「望んでいる」に過ぎない事柄、即ち未だ見ていない事実の中に活かされるということであり、それが即ち、顕われた人間的意味づけをしつつ生きる一般の人々と異なり、隠れて働く神への信仰から、一般の人々の知らない、「意味づけ」「解釈」をしつつ生きるということになります。

そこに、一般の人々のつねである歴史解釈が「人間中心的」歴史解釈であるという意味で、それは「下からの解釈」という性格をもつのに対して、信仰によって生きるキリスト者の歴史解釈が、「神中心的」歴史解釈であるという意味で、それが「上からの解釈」という性格をもつということができます。

このように、キリスト者とは、歴史の隠れた支配者を仰がせられる、という開放的姿勢において、その無限に高く・広く・深いご計画の奇しさをかいま見させられつつ、あらゆるこの世での出来事を、意味づけることを学ばせられる者の姿であるということができます。

神が歴史の支配者であるということは、しばしば、神のご計画の動かない軌道、または枠をもってしめつけられることであって、そこでは人間の自由は、そして人間の努力や精進というようなことは、全く意味も位置も与えられていないと解する人々がありますが、それはとんでもない誤解です。

確かに神は、歴史の支配者として、全宇宙の歴史を、「万民の祝福」「万民の救い」、すなわち「平和共存共栄」という目的に向かって進めていたまいます。

しかしその進め方は、人間の推論通りにではなく、人間の思いを無限に超えた神の思い、神の知恵によって進めたまい、その救いの歴史に参与する機会を与えられていますが、それは決して個人の意志の全面的否定という形をとりません。

「イスラエルよ、何ゆえあなたは、
『わが訴えはわが神に顧みられない』
と言うか。
あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。
主はとこしえの神、地の果ての創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい」(イザヤ書40:27-28)
といわれています。

つまり、神はそのご計画にさからう人間とか、権力者というものを、人間が望むような形で、直ちに破滅させるというのでなく、それぞれ、神に敵対して働きかける力にもその「所を得させつつ」、その悪意をも、究極的には、神のご計画遂行のために「逆用」、または「変容」したもうということです。

【参考】
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ロマ書8:28)


これこそ旧約聖書と新約聖書を貫いて述べられている救いの歴史の根本命題です。

そのような歴史の隠れた支配者に対する信仰は、おのずから、人生解釈、歴史解釈の形で、その信仰者の対話となって表現されざるをえません。

その実例の代表的なものとしてしるされているのは、族長ヤコブの子ヨセフとその兄弟との対話です(創世記45:1以下)。

両親の寵愛を一身にあつめたヨセフは、その兄弟らの嫉妬から、エジプトの奴隷商人の手に売り渡されました。
ヨセフは神の祝福のうちに、ついにエジプトの宰相にまで昇格し、そこへ饑饉のため食糧を求めにやってきた兄弟たちと奇しき再会をしますが、その時の情景を聖書は、次のような対話の形でしるしております。

「そこでヨセフはそばに立っているすべての人の前で、自分を制しきれなくなったので、
『人は皆ここから出てください』
と呼ばわった。
それゆえヨセフが兄弟たちに自分のことを明かした時、ひとりも彼のそばに立っている者はなかった。ーー
ヨセフは兄弟たちに言った
『わたしに近寄ってください』。
彼らが近寄ったので彼は言った、
『わたしはあなたがたの弟ヨセフです。
あなたがたがエジプトに売った者です。
しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。
神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。ーー
神は、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。
それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です』」

ヨセフがいう、
「わたしはあなたがたの弟ヨセフです。
あなたがたがエジプトに売った者です」
という出来事は、そこに何ら信仰などの入らない、いわゆる一般歴史のつねである「人間中心的歴史解釈」とよべるものです。

人間のたくらむ歴史のからくりの中で、ヨセフも苦しんできました。

ところがヨセフは次に、その同一の出来事を、人間を主語とせず、神を主語として、すなわち、神中心的に意味づけをし、
「しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません、神はーー」とのべています。

この神中心的見直しこそ、「隠れて働く歴史の支配者」への信仰から結果した、「上からの意味づけ」「上からの再解釈」というべきものです。

ここで止まってはおりません。
「恐れることはいりません。
わたしが神に代ることができましょうか。
あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました」(創世記50:19-20)
というヨセフの兄弟に対する言葉には、前記の、人間の悪意をも逆用し、それを転用し、かえって神のご計画遂行のために変容したもうた歴史の隠れた支配者がさし示され、証しされています。

なおこの点はさらにイザヤ書においては、はるかに積極的な形でのべられています。

その当時台頭してきた、そして新バビロン帝国を亡ぼした強国ペルシア(今のイラン)の第一世クロス王については、クロス自身が創造の神、歴史の支配者であるイスラエルの神、全地の神を知らなくても、神は彼を知り、そのご計画遂行のために、彼を用いたもう、という驚くべき宣言がなされております。

「わたし(主)はわが受膏者クロスの右の手をとって、もろもろの国をその前に従わせ、もろもろの王の腰を解き、とびらをその前に開かせて、門を閉じさせない、と言われる主は、その受膏者クロスにこう言われる。
『わたしはあなたの前に行って、もろもろの山を平らにし、青銅のとびらをこわし、鉄の貫の木を断ち切り、あなたに、暗い所にある財宝と、ひそかな所に隠した宝物とを与えて、わたしは主、あなたの名を呼んだイスラエルの神であることをあなたに知らせよう。
わがしもベヤコブのために、わたしの選んだイスラエルのために、わたしはあなたの名を呼んだ。
あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたに名を与えた。
わたしは主である。
わたしのほかに神はない、ひとりもない。
あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする」(イザヤ45:1-5)
とのべられています。

以上のような視点に立つとき、初めて、「一般歴史」と「救拯史」との正しい関係が照らし出されてきます。

しかもそれと同時に、そのような隠れて歴史を支配する神、人の悪意をも変容したもう神が仰がれるところでは、人間が神の分野にまで越権したり、宣教の効果を人間的評価をもってはかって、絶望するという愚かさから免れさせられるといえます。

この点に関して示唆を与える代表的な言葉は、エゼキエル書の次の言葉です。
「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの民、すなわちわたしにそむいた反逆の民につかわす。
彼らもその先祖も、わたしにそむいて今日に及んでいる。
彼らは厚顔で強情な者たちである。
わたしはあなたを彼らにつかわす。
あなたは彼らに
『主なる神はこういわれる』
といいなさい。
彼らは聞いても、拒んでも(彼らは反逆の家だから)彼らの中に預言者がいたことを知るだろう」(イザヤ2:3以下)。

敵対者をどれだけ説き伏すことが出来るか、どれだけの人々を神の方向に引きもどすことが出来るか、という伝道の効果にのみ心を奪われやすい「証し人」にとって、これは何たる驚きでしょうか。

「人々はたとえあなたの言を、聞いても、拒んでも、彼らの中に預言者がいたこと、証し人がいたことを知るだろう」とは、また何と慰めにみちた言葉でしょうか。

そればかりではありません。

エゼキエル書のさし示す神は、その都度の歴史への干渉において、彼が主であることを知らしめたもう者として仰がれております。
「そしてあなたがたは (彼らは) わたしが主であることを知るようになる」
という句が大交響曲のテーマのように、エゼキエル書全体に反復されています。

聖書のさし示す「歴史の主」は、新約聖書においては、歴史の中心に立つキリストを通して、万物が神に帰一するという方向づけを明らかにされます。

すなわちキリストである
「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生まれたかたである。
万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。
これらいっさいのものは、御子にあって造られ、御子のために造られたのである。
彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。
そして自らは、そのからだなる教会のかしらである」(コロサイ1:15以下)
といわれ、すべての被造者が拠ってもって意義を見出し、所を得しめられる、「意味づけの究極的根拠」が明示されています。

パウロはこの歴史の中心であるキリストを「復活の主」としてのべ、
「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。
ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。
最初はキリスト、次に主の来臨に際してキリストに属する者たち、それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。ーー
それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである」(Tコリント15:22以下)
と帰結しています。

果たして私どもは今日、全世界の歴史を主宰なしたもう神の「隠れた事を見ておられる父」のまなざしを意識して生きているでしょうか。

死は、誰も避けることの出来ない人生の必然です。

合理的頭脳に浸り切った現代人にとって、死ほど不条理なものはないでしょう。

意味も、理由も見出せないからです。

この死を「歴史の主」から受け取り直した優れた詩をご紹介します。


    
  「天に一人を増しぬ」


家に一人を減じたり
楽しき団欒は 破れたり         
愛する顔 いつもの席に見えぬぞ かなしき
さはれ 天に一人を増しぬ
聖められ 救われ 全うせられし者 ー人を


家に一人を減じたり
帰るを迎ふる声 一つ見えずなりぬ
行くを送る言葉 一つ消え失せぬ
別るることの 絶えてなき浜辺に
一つの霊魂は上陸せり
天に一人が増しぬ

    
家に一人を減じたり
門を入るにも 死別の哀れにたえず    
内に入れぽ 空しき席を 見るも涙なり  
さわれ はるか彼方に 我らの行くを待ちつつ
天に一人を増しぬ 


家には 一人を減じたり
弱く 浅ましき人情の霧立ちおおいて
歩みもしどろに 目も暗し
さわれ みくらよりの日の輝き出でぬ
天に一人を増しぬ            


げに 天に一人を増しぬ
土の型にねじこまれて
キリストを見るの目暗く
愛の冷ややかなること 
いかで我らの家なるべき
顔を合わせて 吾が君を見まつらん
かしここそ 家なれ また 天なれ


地には 一人を減じたり
その苦痛 悲哀 労働を分かつべき 一人を減じたり
旅人の日ごとの
十字架をになうべき 一人を減じたり
さわれ あがなわれし霊の冠をいただくべき者
一人を 天の家に増しぬ


天に 一人を増しぬ
曇りし日の この一念に輝かん
感謝 賛美の声 さらに加わり
我らの霊魂を天の家に引きかぐる鎖の環
さらに 一つの環を加えられしなり


家に 一人を増しぬ        
別るることのたえてなき家に
主イエスよ        
天の家庭に 君と共に坐すべき席を
我らすべてにも 与えたまえ

(セラ・ゲラルディナ・ストック作)

パウロは、
「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。
この二つのことの間で、板挟みの状態です。
一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。」(ピリピ1:21-23)
と永遠のいのちに言及しています。

「今ここの仰視」

刹那主義ということが現代の風潮です。

しかし皮肉なことに、現代ほど、人間の生命的瞬間ともいうべき、「今ここ」を見失っている時はないようです。

往年のNHKの名ディレクター和田勉さんは、
「映画をはじめとする従来の表現が、これは『表現にならない』として切りすてていったもの、こぼれおとしていったものを、テレビジョンはひろいあげてゆきたい。ーー
どちらかといえば、生物的であることこそ、テレビ的なことであるといえる。
いずれにしても『人間をまるごととる』ためには、時間をかけてはいけない。
それは一気に、すばやくとればとるほど人間的なものとなるだろう。
テレビジョンはこうして『時間』とだけ関係する。
時々刻々の人間とだけ、関係する」
と言っておられました。

視覚と霊覚との差異があるにせよ、割り引きされたり、濾過されたりしない「まるごとの、生物的、人間的」なものを「時々刻々」という生命的瞬間に捉えようとするところに、このテレビ・ディレクターのねらいは、聖書の読者に限りない共鳴を呼びおこすものをもっています。

「時々刻々の人間」とは、まさに、あらかじめ予想した枠にははまらない人間、むしろ一切の枠や前提を破ってくる出来事における人間というべきです。

聖書のさし示す神が、人間の頭の中で考えられた神ではない、ということは、実に、そのような神は、「今ここ」で、その都度、新しく語り出したもう神であり、したがって人間はその都度、既成の自己の先入見や前提や枠を、破られることなしには、生ける神を仰いでいることにもならないし、生ける神の語りかけの言葉に耳を傾けていることにもならないということです。

ところで、聖書では、その都度、ひいては時々刻々の、神の言葉への「今ここ」での聴従、ということが、意外にも神の聖さの顕わされるための絶対条件として理解されています。

しかもこの点を聖書はいかに重大視しているかということは、旧約聖書が、旧約聖書中最大の預言者として位置づけられているイスラエルの大指導者モーセの失敗をもって例証していることによってしられます。

旧約聖書の第一区分であるモーセ五書(「律法」)において、モーセは、
「イスラエルには、こののちモーセのような預言者は起こらなかった。
モーセは主が顔を合わせて知られた者であった」
という讃辞を受けていますが、意外なことに、このモーセは、その指導者としての一切の他の貢献にもかかわらず、遂にみずからはその「約束の地」に入ることを許されなかったことがのべられ、その説明として次のようにしるされています。

「この日、主はモーセにいわれた、
『あなたはエリコに対するモアブの地にあるアバリム山すなわちネボ山に登り、わたしがイスラエルの人々に与えて獲させるカナンの地を見渡せ。
あなたは登って行くその山で死に、あなたの民に連なるであろう。ーー
これはあなたがたがチンの荒野にあるメリバテ・カデシの水のほとりで、イスラエルの人々のうちでわたしにそむき、イスラエルの人々のうちでわたしを聖なるものとして敬わなかったからである。
それであなたはわたしがイスラエルの人々に与える地を、目の前に見るであろう。
しかし、その地に、はいることはできない」(申命記32:48以下)。

このような記事をあえてしるしているモーセ五書にまずひとは奇異な感じをもたされます。

聖書以外のあらゆる書なら一つの例外もなく、「モーセを偉大な英雄」とします。

読者としては、このような記事をあえてそこにおいている旧約聖書の意図は何であったろうか、という問いにみちびかれます。

まず、ここにいわれているモーセの「そむき」とは、何であったでしょう。

それは要約すると、「約束の地」に向かって砂漠を旅するうちに、イスラエル人は渇きに耐えられず、モーセに助けを求めた、そこでモーセが神に訴えをとりつぐと、神はモーセの手の杖で岩を「打って」水を出せといわれた(出エジプト記17:6)。

また再び民がモーセに渇きを訴えてモーセが神にうかがいをたてたとき、神は彼に、今度は「岩に命ぜよ」といわれた(民数記20:8)。

しかし、この時、モーセは過去において、岩を「打って」水が出た、という経験にしばられて、このたびも、またその岩を「打った」、その行為が、彼の「そむき」として指摘されています。

モーセはこのとき、自己の経験によりたのんで、「今ここ」に語りたもう、新しい神の語りかけを、それとして聴きわける鋭敏性をにぶらせてしまったということです。

そして、そのことが、主なる神の「聖なること」を現わさなかったモーセの在り方として審かれているのです。

つまり、神の「聖なること」は、そのみ言葉に対する「現在的聴従」と不可分であるという真理が、そこに主張されているのです。

このような聖書独自の見方に対して、光を与えてくれるのは、次のことです。

それは、イスラエル人に神から遣わされた使者としてモーセが語るにさいし、モーセが神に、
「わたしがイスラエルの人々のところへ行って彼らに、
『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』
と言うとき、彼らが、
『その名はなんというのですか』
とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」
と問うたときの答えとして、
「神はモーセにいわれた、
『わたしは、有って有る者』」(出エジプト記3:13以下)
としるされていることです。

神が、「有って有る者」というのは、神は、絶対に人間のつくる枠にはめられない、まさに、その自由意志において欲したもうところにしたがって自らを顕わす絶対主体である、という意味に解されます。

そのような神なればこそ、神が神として、時々刻々、その欲するところにしたがって顕われ、かつ語りたもう者であって、そのような神が、そのような神であり、それ以外の神ではありえないことがすなわち「神の聖さ」が顕わされることに他なりません。

それゆえ、そのような神に対しては、常に、「今ここ」において、いかに人の予想と前提を「超えて」働き、かつ語りたもうか、ということに対する人の心の開放性が求められるのであり、それ以外の在り方は、神を神としてあがめず、自己への信頼、過去の経験への依存、によって、神の言葉をしばる、という冒涜的行為だということになります。

実に、聖書の独自な評価によれば、神の言葉に対する「現在的聴従」ということは、モーセのような偉大な人物の失敗を通してまで語られねばならないような、峻厳な真理なのです。

このような記事を通して、あらためて、人間を美化するのとは、全く逆に、あくまでも「神中心的」な聖書の発想法に目を開かせられます。

神の聖さの現わされるための「今ここ」ということは、それのみで止まりません。

このことに目ざめることは、すなわち、同時にそのような「主の証し人」としての、きびしい責任に目ざめさせられることなのです。

人の世は、いくら文明が進んでも、いかに時代的状況が移り変わっても、人の心の在り方は、大昔も現代もあまり変わっていないものだ、とはつねにくり返される感慨です。

現代は、宗教に対する無関心ないしは反宗教的な気分に押しまくられている時代ですが、多くの預言者の遣わされた状況も、つねにそれに似たものでした。

とりわけ預言者エゼキエルの遣わされた民は、「反逆の民、厚顔で強情な者たち」でした(エゼキエル2:3以下、3:7など)。

【参考】
「主は言われた。
『人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。
彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている。』」(エゼキエル2:3)


「しかし、イスラエルの家は、あなたに聞こうとはしない。
まことに、彼らはわたしに聞こうとしない者だ。
まことにイスラエルの家はすべて、額も硬く心も硬い。」(エゼキエル3:7)

しかし、預言者は、それを最初から知りつつ、なお語れと命じられています。

神は、エゼキエルに向かって、
「わたしはあなたを彼らにつかわす。
あなたは彼らに
『主なる神はこう言われる』と言いなさい」
と命じたもうのです。
しかもそこには、注目すべき言葉がつけ加えられております。
「彼らは聞いても、拒んでも、
『彼らは反逆の家だから』
彼らの中に預言者がいたことを知るだろう。
人の子よ、彼らを恐れてはならない」(エゼキエル2:4-6)。

語る者、証しする者の関心は、その効果にあります。

私どもは何と強くその効果によって支配されることでしょうか。

しかし、聖書の強調は、いずれかというと、むしろ、語っても効果のないことにおかれています。

預言者イザヤの場合でさえ、
「あなたは行って、この民にこう言いなさい、
『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。
あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』
と。
あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉じなさい。
これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」
と。
そこでイザヤが、
「主よ、いつまでですか」
とたずねると、
「町々は荒れすたれて、住む者もなく、ーー国は全く荒れ地となり、ーーその中に十分の一の残る者があっても、これもまた焼き滅ぼされる」(イザヤ6:9以下)
といわれています。

しかし、その事柄において、聖書は、人間の効果とか、評価の浅さ・狭さ・低さを恥かしめるかのように、
「彼らはあなたの言葉は聞くが、それを行なおうとはしない。
この事が起こる時ーーこれは必ず起こるーーそのとき彼らの中にひとりの預言者がいたことを彼らは悟る」(エゼキエル33:32-33)
と告げています。

「今ここ」での、現在的聴従を求めたもう神は、万人に対し、「今ここ」での方向転換ーー悔い改めを待ちたもう主です。

「わたしは、有って有る者」として自己を顕わしたもう神は、「今ここ」における出会いを待ちたもう主です。

それゆえ主はエゼキエルに、
「わたしは生きている。
わたしは悪人の死を喜ばない。
むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。
あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。ーー
義人の義は、彼が罪を犯す時には、彼を救わない。
悪人の悪は、彼がその悪を離れる時、その悪のために倒れることはない。
義人は彼が罪を犯す時、その義のために生きることはできない」(エゼキエル33:11以下)
とイスラエルに告げることを命じられます。

つまり、神の前、生ける神の前にレッテルはものをいわない、肝心なのは、「今ここ」であるということです。

そこで、それなるがゆえに、証し人の責任は、とにかく、語り、警告することだというのです。

証し人は、警告的に語る責任は絶対に免れられません。

だが語られてもなお相手がきかない時は、きかない人自身の責任であって、証し人の責任ではない、ということです。

エゼキエル書は証し人を「見守る者」とよび、次のようにしるしています。
「人の子よ、あなたの民の人々に語って言え、わたしがつるぎを一つの国に臨ませる時、その国の民が彼らのうちからひとりを選んで、これを自分たちの見守る者とする。
彼は国につるぎが臨むのを見て、ラッパを吹き、民を戒める。
しかし人がラッパの音を聞いても、みずから警戒せず、ついにつるぎが来て、その人を殺したなら、その血は彼のこうべに帰する。
彼はラッパの音を聞いて、みずから警戒しなかったのであるから、その血は彼自身に帰する。
しかしその人が、みずから警戒したなら、その命は救われる。
しかし見守る者が、つるぎの臨むのを見て、ラッパを吹かず、そのため民が、みずから警戒しないでいるうちに、つるぎが臨み、彼らの中のひとりを失うならば、その人は、自分の罪のために殺されるが、わたしはその血の責任を、見守る者の手に求める」(エゼキエル33:1以下)。

対話が対話であるゆえんは、「今ここ」を外してはありえません。

対話が「今ここにおける出来事性」を失ったら、もはや対話ではないからです。

私どもはいかにしばしば「今ここ」に新しく語りかける神を仰ぐ代わりに、すでに「分かり切ってしまった神」、それなるがゆえに私の概念となり、「それ」として、または「かれ」として対象化され、したがってもはや、生きた「汝」として今ここに出会う主体ではない、偶像化に身をゆだねてしまっていることでしょうか。

そのような致命的なすりかえを照らし出してくれる強烈な光の前に身をおくことが、まず証し人の先決問題ではないでしょうか。

「先取りへの訴え」

聖書は強い者、賢い者に訴える書物です。

弱者の宗教ではありません。

聖書全体から浮き彫りにされるイエス・キリストの代わりに、福音書の中の「神の子ではない、人間の友、貧しい者の友なるイエス」を、それぞれの状況に応じて評価する方向の志向がなされていますが、これらはいずれも、聖書全体を「処理不可能な規準」としてみるのではなく、時代の評価ひいては、現代人を規準とする評価で、聖書を「処理可能」なものとしている実例です。

キリスト教はしばしば誤って、弱者のための宗教と考えられ、いわゆる博愛主義とかヒューマニズムのたぐいとみなされているようです。

ニーチェというヨーロッパの思想家でさえ、弱者の味方であるキリスト教は、人間の能力を十分に発揮することをさまたげる意味で、人類の敵であるという見方をしていました。

しかし、これは、すくなくとも聖書の本来の主張からすれば、大変な誤解です。

というのは、選民イスラエルの教育方針は、より強い者、より賢い者が、より弱い者、より愚かな者のために、その弱さ、愚かさを「負う」ということでしたから明らかな間違いです(出エジプト記16:13以下、レビ記25:8以下、イザヤ書53章など)。

【注】
イスラエルは、全世界の民族を含む「神の国」実現のために選ばれ、その目的に向かって教育されました。
その教育の具体的なものとしては特に砂漠放浪時代に与えられた「マナの分配」(出エジプト記16章)と「ヨベルの年の規定」(レビ記25章)があげられますが、それらはいずれも、他者のための個人の「権利放棄」を各人に要請するものでした。
力の不平等な社会で、各人がその権利を主張したのでは、落伍者や犠牲者が絶対になくならないからです。
また選民の使命からいっても、選びを責任として受けとらず、これを特権として受けとる限りは、その使命が果せないのです。
それゆえ多くの人々の罪のために、その贖いとして身をささげる、「主の僕」の姿において(イザヤ書)選民の「あるべき姿」が、権利放棄の形で示されました。
イスラエルの「あるがままの姿」とは、異邦人の悔改めということよりも、自己満足に重点をおいた「ヨナの姿」において象徴されたものこそ、イスラエルの現実のあり方だったからです。
選民失格の原因は、選民の特権意識とその主張であった、といっても過言ではありません。
ですから、イエスの福音も、ユダヤ人の特権意識の粉砕に始まらなければなりませんでした。


新約聖書のローマ人への手紙でもパウロは、教会に向かって、
「わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。
わたしたちひとりびとりは隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。
キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった」(ロマ書15:1以下)
と訴えています。

さらに前述したように、隠れて働く歴史の支配者である神を仰ぐキリスト者に対する聖書の訴えは、未だ現実に見ていない神の究極的勝利を、今、既に現実に見ているかのように決断するということであり、これは、比類なく冒険的な「先取り」への訴えです。

信仰は冒険である、といわれますが、信仰の冒険とは、「神の勝利の先取り」ということです。

旧約聖書はこの真理を、生き生きとしたイメージにみちた物語を通して語っています。

族長アブラハムは、新約聖書でも、その信仰のゆえに「多くの国民の父」(ロマ書4:16-25)とよばれています。

そのアブラハムは、創世記で、すべての場合に、「信仰とは、神の約束の言葉は、神の言葉であるがゆえに、必ず成るのであって、断じてそれは人間の側の条件の故に成るのではなく、人間の条件の不備にもかかわらず成るということへの絶対信頼である」ことを証しするために、そこに登場させられています。

齢すでに七十五歳のアブラハムに主は、
「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。(国土獲得)
わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。(子孫繁栄)
あなたは祝福の基となるであろう。(万民福祉)」
と語りたまい、その時「主がいわれたようにいで立った」アブラハムについて、ヘブル人への手紙は、「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った」(ヘブル11:8)
と注を加えています。

これこそ信仰の先取り的性格です。
「信仰によって、サラ(アブラハムの妻)もまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。
約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである」(ヘブル11:11)
といわれているように、幾多の試練の後、彼らにはついに後継ぎとしてイサクが与えられました。

アブラハムにとってイサクは「神の約束を実現するために残された唯一の条件」でした。

ところが創世記は、そのアブラハムに対して神が、
「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」
と命じられたことをしるしています。

そしてその残酷ともいうべき命令に服するアブラハムとその子イサクとの対話が次のようにのべられています。

「アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。
やがてイサクは父アブラハムに言った、
『父よ』。
彼は答えた
『子よ、わたしはここにいます』。
イサクは言った。
『火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか』。
アブラハムは言った、
『子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう』。
こうしてふたりは一緒に行った」(創世記22:6-8)。

このアブラハムの答えが、神の約束の実現のための唯一の人間的条件であるイサクを助けて下さるという予想において語られたものでないことは、これにつづく記述からも明らかです。

その意味で、このアブラハムの答えは、唯一の人間的条件として残されたものが奪われることがあっても、なお、神は約束を必ず成しとげたもうという、「神の究極的勝利の先取り」以外の何ものでもなかったのです。

この記事には、いつしか私どもの陥ってしまっている甘い信仰観をあばかずにはおかないようなメスの鋭さが感じられます。

現代はまたの名を「情報時代」といわれます。

時代はまさに情報氾濫を呈しています。

しかし情報が氾濫すればするほど、その「情況判断」の責任は免れられません。

情況は、それが「何から判断されるか」によって、全く正反対の判断を生みます。

民数記は約束の地カナンの偵察を命じられた者たちの正反対の情況判断を次のように記述しています。

第一のグループは悲観的判断を与えたもので、彼らは、
「わたしたちが行き巡って探った地は、そこに住む者を滅ぼす地です。
またその所でわたしたちがみた民はみな背の高い人々です。
わたしたちはまたそこで、ネピリム(巨人)から出たアナクの子孫ネピリムを見ました。
わたしたちは自分が、いなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません」(民数記13:30以下)
と報告し、その結果全会衆は、モーセとアロンにむかってつぶやき、エジプトに帰ることをのぞんだとしるしています。

第二のグループ(ヨシュアとカレブ)は、
「わたしたちが行き巡って探った地は非常に良い地です。
もし、主が良しとされるならば、わたしたちをその地に導いて行って、それをわたしたちにくださるでしょう。
それは乳と蜜の流れている地です。
ただ、主にそむいてはなりません。
またその地の民を恐れてはなりません。
彼らはわたしたちの食い物にすぎません。
彼らを守る者は取り除かれます。
主がわたしたちと共におられますから、彼らを恐れてはなりません」(民数記14:5以下)
と全会衆をはげましました。

この第二のグループの情況判断は、まさに、未だ見ていない、神の究極的勝利を、既に見ているかのように決断する先取りとしての情況判断です。

彼らは「神に完全に従った」者として、後に賞賛されています(民数記14:24)。

この真理を生き生きとしたイメージで語る他の例は、イスラエルのヨルダン渡渉に際しての記事です。

約束の地を占拠するに際して、イスラエルの前には、ヨルダンを渡るという課題がおかれていました。

しかしそのヨルダン渡渉に際して、神はそのヨルダンの水をせきとめるという奇跡を先行させませんでした。

むしろそこには、
「ごらんなさい。
全地の主の契約の箱は、あなたがたに先立ってヨルダンを渡ろうとしている。
それゆえ、今、イスラエルの部族のうちから、部族ごとにひとりずつ、合わせて十二人を選びなさい。
全地の主なる神の箱をかく祭司たちの足の裏が、ヨルダンの水の中に踏みとどまる時、ヨルダンの水は流れをせきとめられ、上から流れくだる水はとどまって、うず高くなるであろう」(ヨシュア記3:11以下)
と命じられ、その結果、箱をかく祭司たちの足が水際にひたると同時に、上から流れ下る水は全くせきとめられ、ついに民はみなヨルダンを渡り終わったことがしるされています。

ヨシュア記をもって旧約聖書はその第二区分にはいり、選民の実践の段階になりますが、このように、その実践の特色は、奇跡に先行して、まず自らの足を踏み出すという、神の約束の先取りとして受けとらるべきことが示されています。

旧約聖書へブル原典の最後におかれたのは、歴代志という書ですが、そこには、この「神の究極的勝利の先取り」という点が、さらに極端なまでに強調されています。

ユダ王ヨシャパテをその戦闘にさいし、はげます言葉として、
「この大軍のために恐れてはならない。
おののいてはならない。
これはあなたがたの戦いではなく、主の戦いだからである。
あす、彼らの所へ攻め下りなさい。
見よ、彼らはヂヅの坂から上って来る。
あなたがたはエルエルの野の東、谷の端でこれに会うであろう。
この戦いには、あなたがたは戦うに及ばない。
ユダおよび、エルサレムよ、あなたがたは進み出て立ち、あなたがたと共におられる主の勝利を見なさい。
恐れてはならない、おののいてはならない。
あす、彼らの所に攻めて行きなさい。
主はあなたがたと共におられるからである」(U歴代志20:15以下)
と語られています。

私どもはつねに、私どもの戦いの目標が「主の勝利」でしかないのに、いつしかそれを「自己の勝利」「自己の勝負」であるかのような錯覚に陥ってしまっています。

歴代志はしかしここで止まってはいません。

「主の勝利の先取り」とは、それをつきつめれば、「賛美の先行」である、と断言するのです。

この「主の勝利」に挑戦されたヨシャパテは、ついに、
「民と相談して、人々を任命し、聖なる飾りを着けて軍勢の前に進ませ、主に向かって歌をうたい、かつさんびさせ、
『主に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない』
と言わせた。
そして彼らが歌をうたい、賛美し始めた時、主は伏兵を設け、かのユダに攻めてきたアンモン、モアブ、セイル山の人々に向かわせられたので、「彼らは打ち敗られた」というのです((U歴代志20:21-22)。

賛美は、戦勝に後続すべきではなく、戦勝に先行すべきだというのです。

なぜなら、私どもの戦勝は、「主の勝利」しかないのであり、主の勝利は、私どもの勝利に依存するものではなく、主の勝利は、つねに絶対的な現実だからです。

信仰の本質が、未だ見ていない神の勝利を、既に見ているかのように決断することであるということを、新約聖書で顕著に語っているのはマルコによる福音書です。

とりわけ、それはその弟子に対するイエスの戒めに次のように要約されています。
「神を信じなさい。
よく聞いておくがよい。
だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。
そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11:22-24)。

けれどもこのマルコによる福音書の言葉は、これだけで止めると大変な誤解にみちびくことになります。

というのはこれと平行するマタイによる福音書第二一章二二節には、
「また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」
と、かなりその意味が弱められているのを見出します。

もちろんこれには先行して、「もしあなたが信じて疑わないならば」(マタイ21:21)と、その説明が与えられてはいますが、しかしそれにしても、前述のマルコによる福音書の言葉がここにはやわらげられ、割り引きされていることは事実です。

これには原始教会における福音宣教の拡大と伝播ということを考えの中におかないと、とんだ間違いに陥ります。

人間には、「信仰」について、強い人と弱い人とがあります。

私どもの周囲をみても、この別がはっきりわかる場合がすくなくありません。

イエスの直接のみ言葉を聞いた人々から、それが次の人、次の人、次の人へと伝えられていく間に、この信仰的な強弱が、現実の問題として、宣教者の前に必ず出てきます。

ですから当然その都度、それが弱められなければ分かってもらえない、というような場合が必ずあるものです。

それがこのマタイによる福音書にも表われているのです。

このことは、別々の人々が書いたからというだけでなく、同一人の書いたものにも現われています。

使徒パウロの書いたガラテヤ人への手紙一章六―九節と、ピリピ人への手紙一章一五―一九節の言葉を比べると、よく分かります。

ガラテヤ人への手紙は彼の初期の手紙であり、ビリピ人への手紙は彼がその最後に書いたものの一つです。

このことを考えて、私どもは「強い表現」と「弱い表現」との別が、なぜおこったか、ということを理解しなければなりません。

そしてその両方が新約聖書の中にふくまれていることの意味をも理解する必要があります。

【参考】
「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。
ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。
しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。
わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。
あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。」(ガラテヤ1:6-9)

「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。
一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、 他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。
だが、それがなんであろう。
口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。
というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。」(ピリピ1:15-19)


「相剋としての問い」

あらゆる宗教に通ずる本質は「絶対依存感」であるといわれます。

何か自分以上の、確かな、頼りがいのあるよりどころを求めずにはいられない、という意味では、およそ宗教的でない人間はあり得ないでしょう。

けれども「宗教的」であるということが、直ちに「信仰的」であるとはいえません。

マルクスやレーニンなどによって代表されてきたいわゆる「唯物論的」な思想は、「宗教は幻想なり」とみたフォイエルバッハの宗教否定と通じるといわれます。

フォイエルバッハは、人間が神を造ったのであって、神が人間を創ったのではない。

神とは、人間がその願望を満たすために空想的につくり上げた幻想にすぎない、と申しました。

キリスト教もやはり「宗教」とよばれている限り、すべてのキリスト者は、自問自答しなければなりません。

「私の信じているキリスト教は、果たして私の欲求を満たす対象として私が私にとって都合のよい神をつくりあげているものでないかどうか」と。

フォイエルバッハによって投げかけられたこの「挑戦」に対して、キリスト教神学者として有名なスイスのブルンナーは、「キリスト教は宗教ではなく、啓示である」と答えました。

この答えによって、問題は解消したのではありません。

フォイエルバッハの挑戦は、決して過去のものではなく、刻々に、すべてのキリスト者各自が、それぞれの責任において、「主体的に」答えていかなければならない性格のものなのです。

キリスト教の信仰は、生まれつきの人間のやむにやまれぬ依存感というようなものを、そして、そこにひそむ人間中心的欲求を満たすものとして案出された宗教的幻想に対する信心でないことはいうまでもありませんが、さらにキリスト教は、このフォイエルバッハの、ひいては現在の宗教否定の形でなされる「挑戦」を、いかにうけとめるかによって、理論的には立ちもし倒れもします。

第一に、キリスト教が、人間中心的欲求を満たすため、でっち上げられたものでないということは、何に基づいて断言できるのでしょうか。

それはいうまでもなく、旧約聖書と新約聖書を貫いてさし示されている神、ひいてはキリストは実に、人間中心的欲求を満たす神、ひいてはキリストに対する人間の幻想を、刻々に打ち破りつつ、自己を開き示す者だからです。

旧約聖書を貫く選民史も、新約聖書を貫く教会の姿も、ともに、低く・狭く・浅い選民中心的、人間中心的枠や、前提や、期待や、幻想を、上から圧倒的に破られ、審かれつつ導かれた歴史の展開に他なりません。

そこに示される神は、絶対他者として人間から断絶された、きびしい審判者ということに尽きません。

それは救うためにのみ審き、最も遠い時に最も近く、超越しつつ内在し、包容しつつ相剋するという関わり方において示されています。

聖書における神のさし示し方、ひいては、神の自己啓示のし方は、このように、一面的ではなく、多面的、否多次元的であることをその特徴としています。

たとえば、旧約聖書の代表的な思潮としては、預言者、祭司、知者があげられますが(エレミヤ書18:18)、それらは類型的には、神に代わって圧倒的に語る預言者は「上から」、万民の罪を黙々と負いつつ神の前にとりなす祭司は「下から」、神が隠れていたもう現実社会での処世術を教える知者は「横から」というように、その語り方においても特色を異にしています。

【参考】
「祭司から律法が、賢者から助言が、預言者から御言葉が失われることはない。」(エレミヤ18:18)


ところで、さらに、預言者のうちの代表的なものとして、イザヤ書、エレミヤ書とエゼキエル書は、「三大預言者」とよばれていますが、それらは内容からいって、共通面とともに差異面をもっています。

三大預言者は、ともに、選民イスラエルの「背信」「審判」「回復」という共通主題をかかげながら、その語り方は、三者それぞれが、個性的特色をもっています。

三大預言者の特色が最もよく現われてくるのは、背信のイスラエルの「回復の根拠」という点においてですが、ごく大づかみにみると、イザヤ書は、その回復は、万民の罪を代わって負う「苦難の僕」の姿において象徴しているように、回復の「内在的」根拠ともいうべきものを語っています(イザヤ42章以下、特53章)。

その民の代わりに罪を負う者とは、「在るべき選民の姿」という意味をもっていますが、その思想は、
「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。
われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。ーー
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。ーー
しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。」
という表現に代表的に描き出されています(イザヤ53章)。

イザヤ書が、背信イスラエルの回復に対するいわば「内在的」根拠を示すのに対し、第三におかれたエゼキエル書は正反対に、背信のイスラエルの回復に対する「超越的」根拠を語っています。

エゼキエル書は、選び主に背いたイスラエルの側には、何ら回復されるべき根拠も、資格もない。

それゆえ、神はただ選民の背反によって汚されたその「聖なる名」を惜しんで、そのためにイスラエルを回復したもう、と語ります。
「それゆえ、あなたはイスラエルの家に言え。
主なる神はこう言われる。
イスラエルの家よ、わたしがすることはあなたがたのためではない。
それはあなたがたが行った諸国民の中で汚した、わが聖なる名のためである。
わたしは諸国民の中で汚されたもの、すなわち、あなたがたが彼らの中で汚した、わが大いなる名の聖なることを示す」(エゼキエル36:22以下)
とはその回復の「超越的根拠」を語る代表的な言葉です。

この「内在的根拠」を語るイザヤ書と、「超越的根拠」を語るエゼキエル書との間にはさまれたのがエレミヤ書です。

「内在」と「超越」という相反する性格の間にはさまれたエレミヤ書の特色は、その「相剋性」においてきわだっています。

しかもそこには、預言者エレミヤ自身が、神の言葉の相剋性の権化として、否、「相剋点」そのものとして照らし出されています。

したがって、「キリスト教もまた人間中心的欲求の充足者を描き出す幻想宗教に過ぎないのか」という、証し人各自に迫られる自問自答に対する一つの実例として、エレミヤの位置づけをさぐってみます。

背信のイスラエルに対して、神の言葉を語るべきエレミヤは、
「全国と、ユダの王と、そのつかさと、その祭司と、その地の民の前に、あなたを堅き城、鉄の柱、青銅の城壁」
とされ、その彼に対しては、
「彼らはあなたと戦うが、あなたに勝つことはできない。
わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」(エレミヤ1:18以下)
と主はいわれます。

選民一般に対する神の相剋点として立たされただけでなく、彼は同時代の宗教指導者との相剋のさ中に立たされました。

彼とそのような宗教指導者(偽預言者)との闘いは、他でもなく、神の言葉の相剋性を相剋性(対立性)として語らず、それを割り引きして安易な気やすめにすりかえる者たちとの闘いです。

エレミヤにとっては、時代の病根は、
「天よ、この事を知って驚け、おののけ、いたく恐れよ、と主はいわれる。
それは、わたしの民が二つの悪しき事を行なったからである。
すなわち生ける水の源であるわたしを捨てて、自分で水ためを掘った。
それは、こわれた水ためで、水を入れておくことのできないものだ」
といわれるほど深刻な事態であるのに、彼ら宗教指導者は
「小さい者から大きい者まで、みな不正な利をむさぼり、また預言者から祭司にいたるまで、みな偽りを行なっているからだ。
彼らは、手軽にわたしの民の傷をいやし、平安がないのに、『平安、平安』と言っている」のです(エレミヤ6:13以下、7:3、8:8以下、8:20以下、13:23以下、17:13など)。

「万軍の主はこう言われる。
あなたがたに預言する預言者の言葉を聞いてはならない。
彼らはあなたがたに、むなしい望みをいだかせ、主の口から出たのでない、自分の心の黙示を語るのである。
彼らは主の言葉を軽んじる者に向かって絶えず、
『あなたがたは平安を得る』
と言い、また自分の強情な心にしたがって歩むすべての人に向かって、
『あなたがたに災はこない』
と言う。ーー
主は仰せられる、わたしの言葉は火のようではないか。
また岩を打ち砕く槌のようではないか。
それゆえ見よ、わたしはわたしの言葉を互いに盗む預言者の敵となると、主は言われる。
見よ、わたしは『主は言いたもう』と舌をもって語る預言者の敵となると、主は言われる。
主は仰せられる、見よ、わたしは偽りの夢を預言する者の敵となる」(エレミヤ23:16-17、23:29-31)
という表現のくり返しに、誰しもが神の言葉を語ること、聞くことにおいて求められるきびしさに恐れを覚えるでしょう。

エレミヤ書のそのような特色は、イザヤ書との次のような対照によってなお一層鮮かにされます。

イザヤ書が、民に代わってその罪を負う者の姿を、
「彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(イザヤ53:5)
とのべれば、それをくつがえさんばかりに、エレミヤ書は、
「主はこう仰せられる、あなたの痛みはいえず、あなたの傷は重い。
あなたの訴えを支持する者はなく、あなたの傷をつつむ薬はなく、あなたをいやすものもない。
あなたの愛する者はみなあなたを忘れて、あなたの事を心に留めない」(エレミヤ30:12以下、46:11、15:6、13:23、8:22)
という言葉をもって突き放します。

またエレミヤとその時代の一般民衆との相剋の激しさは、
「彼らはエレミヤを捕え、監視の庭にある王子マルキヤの穴に投げ入れた。
すなわち、綱をもってエレミヤをつり降ろしたが、その穴には水がなく、泥だけであったので、エレミヤは泥の中に沈んだ」(エレミヤ38:4以下)
という記述によってその一端をうかがい知ることができます。

神の言葉を語る者が、神に背く者に対する神の相剋の権化となり、「相剋点」となるということを、さらに最も深刻に尖端的に示すのは、エレミヤと神の言葉それ自体との相剋です。

それは次のようなすさまじい告白となっています。

「主よ、あなたがわたしを欺かれたので、わたしはその欺きに従いました。
あなたはわたしよりも強いので、わたしを説き伏せられたのです。
わたしは一日中、物笑いとなり、人はみなわたしをあざけります。
それは、わたしが語り、呼ばわるごとに、『暴虐、滅亡』と叫ぶからです。
主の言葉が一日中、わが身のはずかしめと、あざけりになるからです。
もしわたしが、
『主のことは、重ねて言わない、このうえその名によって語る事はしない』
と言えば、主の言葉がわたしの心にあって、燃える火のわが骨のうちに閉じこめられているようで、それを押えるのに疲れはてて、耐えることができません。
多くの人のささやくのを聞くからです。
恐れが四方にあります。
『告発せよ。
さあ、彼を告発しよう』
と言って、わが親しい友は皆わたしのつまずくのを、うかがっています」(エレミヤ20:7以下)
とはその告白です。

すぐ役に立つ処方箋を求める時代のさなかに立ちつつ、神の言葉を語る者には、気休めの処方箋をさし出すことはできません。

神の言葉を聞きつつ語り、証しする者自身が、神の言葉によって「説き伏せられる」ということ、つまり、証し人自身が、まず神の言葉によって相剋され、圧倒的に説き伏せられ、み言葉に打ち勝たれるということが、証しするということの先決問題であることを、このエレミヤ書は烈しく訴えています。

しかし最後に忘れてはならない点があります。

それは、神の言葉の相剋性をきびしく掘り下げるエレミヤ書の仰がせるものは、「自分の言葉を行おうとして見張っている」歴史の隠れた支配者であるという一事です(エレミヤ1:12、1:19、29:10以下)。

【参考】
「主はわたしに言われた。
『あなたの見るとおりだ。
わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと 見張っている(ショーケード)。」(エレミヤ1:12)

「彼らはあなたに戦いを挑むが 勝つことはできない。
わたしがあなたと共にいて、救い出すと 主は言われた。」
(エレミヤ1:19)

「主はこう言われる。
バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。
わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。
わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。
それは平和の計画であって、災いの計画ではない。
将来と希望を与えるものである。
そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。
わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、 わたしに出会うであろう、と主は言われる。
わたしは捕囚の民を帰らせる。
わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。」(エレミヤ29:10-14)


自然についての知識は、人間に行動の仕方を教え、人間を万物の支配者と化してくれます。
自己についての知識は、人間に行動の仕方を教えるのではなく、存在のあり方を教えてくれます。

「負債感における問い」

昔、『♬二人のため世界はあるの♬』という歌がありましたが、「二人のための世界」、「世界のための二人」、「私のための世界」、「世界のための私」という組み合わせの前半を後半に逆転させるところに、この世で私どもすべての負わされている課題があるといえます。

この組み合わせは、そのような課題を告げると同時に、この私という自己(個)と、自己がその中におかれている社会(全)との関係の本質を素朴に、具象的に示すものといえます。

社会(世界)を離れて、個人の幸福というものはなく、個人を抜きにした社会はありません。

社会(全)を無視した考え方が、「個人主義」的考え方として批判され、その反対に、個人を抹殺するような考え方が、「全体主義」的考え方として非難されるゆえんです。

社会(全)の中に生きる個としての人間、「自己」は、電気のプラスとマイナスの関係のように、全と個という、不可分性の中の両極において、その「緊張」に生きる存在であるというべきでしょう。

好むと好まざるとにかかわらず、この両極のいずれかが否定されるとき、すなわち一が他の犠牲において偏重されるとき、そこには人間性をゆがめるという悲劇が生まれます。

それゆえ、「人間喪失」の危機が叫ばれている今日の私どもの反省において、その事柄が「人間」一般というような普遍的に眺められるような概念としてのみもてあそばれることを警戒しなければならないし、連帯性をぬきにした個人主義的考え方の誤謬を反省しなければならないことはいうまでもありませんが、同時に、かけがえのない自己という個性的特殊性を全く抹殺してしまうような平板的な連帯感に幻惑されることにも危険のあることを思わされます。

この「連帯性」ということは、これに近い言葉といえば、「一体性」ということです。

ある学者はこれを次のように分析しています。

「人間は生まれつきは機械ですが、経験によって自己となります。
そして自己の特性は、自然についての経験の中にあるのではなく、他人についての経験の中にあるのです。
人間が自然よりも他人の生活の中へ、より直接的に入り込むのは、彼が、他人の内に、自分自身の思考や感情を認めるからに他なりません。
人間は他人たちの思考や感情を、己れ自身のものと化し、その結果、己れ自身の中に、すべての人類の諸特徴を具えた、深みを増した自己を見出す術を身につけるのです。
自然についての知識は、人間に行動の仕方を教え、人間を万物の支配者と化してくれます。
自己についての知識は、人間に行動の仕方を教えるのではなく、存在のあり方を教えてくれます。
またそれは、人類の矛盾を孕んだ状況と、生命の状況との中に、人間を浸してくれます。
それは、人間を他の諸生物すべてとも一体化させてくれます」(ブロノフスキー著、松本啓・森松健介訳『人間とは何か』みすず書房、一九六九年、一八六頁参照)。

私ども各自はどんなにもがいてみたところで、特定の民族の中の一人として、民族的連帯感において、自己の民族との一体感を味わいつつあり、私どもがその中に呼吸している文化は、その文化の中に生きる私どもを共通の一体性の中に結び合わせているのです。

以上は人間一般についての概観ですが、私どもが今ここに関心を寄せているのは、いうまでもなく、単なる人としての自己ではなく、キリスト者として社会の中におかれている自己、すなわち特殊な使命を与えられている、「証し人」としての自己ということです。

要するに、キリスト者の対話が、「証し」として用いられるのは「私のための世界」を、「世界のための私」にまで逆転させられる出来事だということができます。

くり返しのべたように、私どもの言葉、在り方、したがって対話のすべてが「証し」となるのは、それが「作意的」(意識的)になされるのではなく、あくまでも、「上から」証しとして用いられるということ、したがって、全く人の予想の枠にははまらないような「出来事」なのです。

したがって、さきに引用した英国の思想史家ブロノフスキーのいうように、聖書の中には、証し人に対していわゆる画一的な「行動の仕方」を見出すことはゆるされませんが、「存在のあり方」を示唆してくれます。

キリスト者、ひいては「証し人」の特殊な在り方は、前記の民族的連帯性とか、文化的連帯性を超えて、さらに、高次元に、否、「上から」与えられる連帯感、上から与えられる一体感とでもいうべき、「異なった次元」のものです。

結論的にいえば、あらゆる全世界人に対してパウロが果たすべき「負債」として感じていた「負債感」といえるものです(ロマ書1:14、13:8)。

【参考】
「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。」(ロマ書1:14)

「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。
人を愛する者は、律法を全うしているのです。」(ロマ書13:8)


「私のための世界」を、「世界のための私」に逆転させる原動力ともいうべきものは、「上から」与えられる「負債感」なのです。

ここに「上から」というのは、民族的、文化的一体性というものが、生まれつきの人間すべてが共有しているものであるという意味では、「下から」のものであるといえるのに対し、この「負債感」(責任感)は、生まれつきの人間にはゆるされず、ただキリストにおいて、否、キリストに出会うことによって初めて各自が見出さしめられる対他的「負い目」を意味しています。

旧約聖書から新約聖書にかけての聖書の強調は、いわゆる「連帯感」というものではなくーーこれはすでに基底にあるものとして前提はされていますがーー「選民的自覚」としてのエリートともいうべき強い者、賢い者への訴えにおかれています。

選民の在り方の特色は「祭司の国」「聖なる民」ということであり(出エジプト記19:6)、「祭司の国」が象徴するのは、祭司という役柄が、万民の罪をその身に負って神の前にとりなすことであることから、「万民のため」という一体化への方向を明示するものです。

また、いわば「神の国」、ひいては神を中心とする平和共存の具現のため、その「実験民族」として選ばれたこのイスラエルの社会教育の中心は、「不平等な構成員からなる社会においては、より強い者、より賢い者が、より弱い者、より愚かな者の弱さ、愚かさを負う」ということでした。

このことは荒野放浪中にイスラエルがその指導者モーセから学んだことであり(出エジプト記16:13以下)、前記の「ヨベルの年」の社会規定を通して学ばされたことでした(レビ記25章)。

「おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子は共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。
彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。
水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである」(イザヤ書11:6以下)
とは、能力の不平等な構成員からなる共存に、いわゆる強者による弱者の弾圧、搾取、弱肉強食、他者犠牲のない平和共存が、ただ「主を知る知識」という上からのものによってのみ可能となることを示します。

またそのイザヤ書の後半にしるされている「苦難の僕」の歌も、「祭司の国」として選ばれながら、「万民の罪を負いつつとりなす」というその使命を果たせなかった現実のイスラエルに代わって、万民の罪を負いつつ、とりなす僕の姿を、「在るべき選民」の姿として幻の形で描いていることは、前記した通りです(イザヤ42章以下、とくに53章)。

能力の不平等な人間社会においての平和共存のための基礎条件が、「各自が能力に応じて働き、必要に応じて受ける」ことであり、したがって、より強い者、より賢い者が、より弱い者、より愚かな者の弱さ愚かさを負う道以外にはない、ということは、理性人には理解できる事柄です。

けれど問題はここにあります。

頭ではわかっているが、感情的に受け容れられない、のが人間、エゴイズムの権化としての、人間、否、私です。

イエスがある時、天国を「ぶどう園の労働者」になぞらえて語り、多く働いた人間も、少なく働いた人間も同じ賃金を支払われたとき不平をもらした人に、そのぶどう園の管理人が、
「友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。
あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。ーー
それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか」
と問い返した会話をのべ、福音書もつづいてイエスにその子等への特別起用を願い出たゼべダイの母の記事、弟子たちの内なる自己欺瞞を暴露しつつ、どんなにもがいてみたところで、生まれつきのままの人間には、徹底した意味で、他の弱さ愚かさを負うという平和共存の基礎条件を満たし得ないことを告げています(マタイ20章、ルカ18:31以下、19:41以下、22:14-24など)。

それらと対応的に、香油のはいった石膏のつぼをもってきて、イエスの御足に香油を注いだ罪の女の記事(ルカ7:36以下)、悔い改めて父の許に帰った放蕩息子の記事(ルカ15章)などは、三たびイエスを裏切り拒んで、あとで泣きつづけたペテロの描写とともに(マルコ14:66以下)、罪は生まれつきの人間にはとうていつぐなうことの出来ない負債であり、したがってそれは赦されるより他ないものであるということを語り、十字架のイエスによって代わって「負われ」たその「負債感」に比例して、赦された者の感謝は大きく、その赦された感謝から、初めて人は他の弱さ、愚かさを「負う」者とされることをのべています。

キリスト者とは、「負われて負う者」とされた者に他なりません。

個人でありつつ、しかも失敗したイスラエルに代わってその歴史を踏み直し(マタイ)、そのイスラエルとの一体化を通して、「在るべきイスラエル」、または「真のイスラエル」として受肉したもうたナザレのイエスが、同時に、神が世から選んで彼に賜わった人々(教会)に対し、
「聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼ら(教会)を守って下さい。
それはわたしたち(父と子)が一つであるように、彼らも一つになるためであります」(ヨハネ17:10以下)
という言葉をもってとりなしたもう教会の主です。

このイエスとは、
「わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」
という預言によって知られるように、すべての人の罪をその十字架において「負い」たもうた主であり(ヨハネ12:32)、神がイエスを世につかわされたように、イエスも私どもを世につかわしたもうのです(ヨハネ17:18)。

キリスト者がこのように「負われて負う」者として「負債感」をもつということは、しかしすべての者が同じ「負い方」をするということではありません。

その負い方は、それぞれが個性的に異なるのです。

人間誰一人、同一の位置におかれている者はありません。

それぞれはそれぞれがそのおかれている固有な位置で、固有なし方で「負われて負う」という負債感に生きるのです。

このことは、ヨハネによる福音書の最後に付け加えられた、復活の主とシモン・ペテロの対話において、きわめて印象的に示唆されています。
「わたしに従ってきなさい」
という主の聖言をききつつ、イエスの愛しておられた弟子をふり返って、
「主よ、この人はどうなのですか」
とたずねたペテロに対し、主は、何の譲歩も示さず、
「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。
あなたはわたしに従ってきなさい」(ヨハネ21:9以下)
と命じたもうたことがしるされています。

「負われて負う」負債感は、それが観念的な空回りをしないためには、やはり、「キリストのからだ」である教会という一体化の具体的「場」につながっていることを不可欠といたします。

「枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように」(ヨハネ15:4以下)。

キリスト者はその民族性と文化性においては、この世の連帯性の中にあります。

しかしキリスト者は同時に、それらを超えた、全宇宙の隠れた帰一点であるキリストに「負われて負う」一体性の中に生かされて、それぞれのかけがえのない仕方において「負債感」に生かされ、したがって「使命感」に生かされる者です。

その意味でキリスト者は、この世の連帯性に対しては、それの中に埋没させられるのではなく、「負債感」の固有性の故に、この世の連帯性に対しては、避けがたい「問い」となる筈です。

「遣わされた者の位置」

この世に生きるキリスト者は、キリストの「証人」とよばれていると同時に、「この世に遣わされた者」とよばれています。

ヨハネによる福音書は、イエスを、神と等しい神の言葉の受肉者としてさし示し、好んで、「父のひとり子」という呼称を使って、その絶対独自性を主張しています。

しかし、それにもかかわらずそこでは、「遣わされた者」という形容詞のみは、キリストとキリスト者とに共通なものとして用いられています。
「あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました」(ヨハネ17:18)
という主の言葉は、多くのうちの代表的一例にすぎません。

そもそも「遣わされた者」とは、その根源を、「遣わし主」の方にもち、したがって「遣わされた」対象とは根源を同じくしないこと、つまり「非連続」であることを予想し、前提しています。

この世に遣わされた者の第一の性格は、彼が「この世の者でない」ということです。
「もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世はあなたがたを自分のものとして愛したであろう。
しかし、あなたがたはこの世のものではない。
かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。
だから、この世はあなたがたを憎むのである」(ヨハネ15:18以下)
とか、
「わたしがこの世のものでないように、彼らも世のものではないからです」(ヨハネ17:14-16)
とは、昇天前のイエスの祈りの中にくり返し強調されている言葉です。

またそのことはイエスのピラトに対する答えのうちにも明示されています。
「わたしの国はこの世のものではない。
もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。
しかし、事実、わたしの国はこの世のものではない」(ヨハネ18:36)
とはその答えでした。

「遣わされた者」と「遣わされている世」との関係の非連続ということは、いうまでもなく、単なる断絶ではありません。

何故なら、この世は神の愛の対象だからです。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。
それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである」(ヨハネ3:16-17)
としるされている通りです。

そうしてみると、この「非連続」ということは、「上からの者」と「下からの者」との非連続であり、「下からの者」が、「上からの者」を、自由に処理することは出来ないという意味での非連続であることがわかります。

それはヨハネによる福音書の、
「上から来る者は、すべてのものの上にある。
地から出る者は、地に属する者であって、地のことを語る。
天から来る者は、すべてのものの上にある。
彼はその見たところ、聞いたところをあかししているが、だれもそのあかしを受けいれない。
しかし、そのあかしを受けいれる者は、神がまことであることを、たしかに認めたのである。
神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。
神は聖霊を限りなく賜うからである」(ヨハネ3:31以下)
といわれ、
「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである」(ヨハネ1:12-13)
という言葉によってあきらかです。

つまり、以上から明らかなことは、「下から」ーーひいては人間の側からーー「上へ」直結する道は断たれているのです。

ただそこには、「上から」、すなわち神の側からの働きかけによる、という道が残されているのです。

この点は主ご自身の次のようなことばの反復によって確認されます。
「父がわたしに与えて下さる者は、皆、わたしに来るであろう」(ヨハネ6:37)。
「わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない」(ヨハネ6:44)。
「父から聞いて学んだ者は、みなわたしに来るのである」(ヨハネ6:45)。
「それだから、父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできないと、言ったのである」(ヨハネ6:65)。
「わたしがお願いするのは、この世のためにではなく、あなたがわたしに賜わった者たちのためです」(ヨハネ17:9など)。

この「父が引きよせたもう」ということは、すでに前掲の聖句(ヨハネ3:34)でも暗示しているように、神の自由な働きである「聖霊による」ということと同義です。

それはイエスとニコデモとの対話によっても明らかです。

「新しく生まれる」ことの不可能を主張するニコデモにイエスは、
「あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。
風は思いのままに吹く。
あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」(ヨハネ3:7-8)
と答えたまいました。

以上のように、「上から」と「下から」との区別を明示するヨハネによる福音書が「神から遣わされた者」の姿を、「光について証しする者」として、それをイエスの先駆者バプテスマのヨハネの姿で象徴的に表わしています。
「ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。
その名をヨハネと言った。
この人はあかしのためにきた。
光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである」(ヨハネ1:6-8)といい、その証しの具体的言葉としては、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29、1:36)
という表現が印象的です。

「神の小羊」とは、旧約聖書のあの「過越」(末尾【参考】を参照)にほふられた小羊の象徴が示してきたように、「十字架のキリスト」をさし示すものです。

つまり、この世という「下から」のものが、「上から」の者であるキリストとは直結しないのです。

それはただ「キリストの十字架」においてのみ関係づけられるという意味で、「非連続」なのです。

そのことは、キリストをギリシヤ語を用いて「ロゴス・キリスト」として語るヨハネによる福音書が、とくに注意を喚起している点です。

即ち、
「祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシヤ人がいた。
彼らはガリラヤのべツサイダ出であるピリポのところにきて、
『君よ、イエスにお目にかかりたいのですが』
と言って頼んだ」というのですが、それをきいたイエスは、その求めに直接応じるのではなく、
「人の子が栄光を受ける時が来た」
という言葉をもって、彼の十字架の時の到来を告げ、かつ、
「そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」(ヨハネ12:20以下)
と答えられました。

「この地から上げられる時」とは、いうまでもなく「十字架につけられたもう時」を意味しています。

こうみてくると、ヨハネによる福音書からは、遣わされた者の担わせられているわざーー即ち課題は、キリストに「つながる」ということの一点にしぼられそうです。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。
もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」(ヨハネ15:5)といわれ、さらに、「よくよくあなたがたに言っておく。
わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。
そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。
わたしが父のみもとに行くからである。
わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。
父が子によって栄光をお受けになるためである」
とさえいわれています(ヨハネ14:12)。

しかし、この「つながっている」ということは、具体的には、「イエスの言葉によって拘束される」ということです。

イエスは自分を信じたユダヤ人たちに、
「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。
また真理を知るであろう。
そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ8:31以下)
といわれている通りです。

またこれをさらに、イエスは昇天直前の祈りにおいてもくり返し、
「真理によって彼らを聖別して下さい。
あなたの御言は真理であります。
あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。
また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします」としるされています(ヨハネ17:17-19)。
要するに「遣わされた者」としてのキリスト者は、光を退ける闇のようなこの世に立ちつつ、自らは光そのものではなく、ただ光について証しする者に過ぎないことを知る者であると同時に、光源を確かにさし示すために、自らその光の中に呪縛されていなければならないということです。

終わりに、「遣わされた者」とは、「遣わし主」の時熟(カイロス、神の時)を仰ぎ望みつつ、「下から」の努力をなす者としてヨハネによる福音書はみています。

ヨハネによる福音書の「カナの婚礼」の記事において、最も象徴的に描かれています(ヨハネ2章)。

「ぶどう酒がなくなってしまいました」という訴えは、いわば、この世に生きるキリスト者をとりかこむ環境、ひいては時代の要求で、宴席でぶどう酒を飲み楽しみ続けたい、という欲求です。

私どもの対話は、このような欲求をみたそうと求める人々との対話だということができます。

しかし、その時、「遣わされた者」としてのイエスは、その時代の要求を直接満たすーーそうすることにより利用されるーーことはせず、「遣わされた者」としての時の意識から、それに直接応ずることをされません。

神の時は、人間が勝手に利用できるーー処理できるーー時ではないからです。

しかし、「遣わし主」の時を待つ者には、「かめに水をいっぱい入れる」というわざが要求されています。

神は、人の知る以上に、「最もよい時」を知りたもう者です。

ある学者は、このことを、ノッブが神の側にのみあって、即ち、「あちら側」にのみあって、「こちら側」すなわち人間の側にはないドアにたとえました(バルト)。

人間としてできることは、ドアを開けることーー自由に勝手に処理することーーではありません。

人間としては、ただそのドアが、あちらから、開かれることを仰ぎ望みつつ、そのドアを叩きつづける、ということだというのですーー最もよい時を知りたもう神が、あちらからそのドアを開きたもうのを待機しつつ〜〜。

またある学者は、これを「首くくりのための踏み台」にたとえて次のように解明しています。

「首をくくる」ためには、どうしても、「踏み台」は不可欠です。

しかし、そうだからといって、その踏み台の上に、立ちつづけていたのでは、目的が果たされません。

彼はその踏み台をけとばさなければその目的が達せられないのです。

結論的にいうと、この場合の踏み台は、その目的完遂のためには「なければならず・あってはならない」ものなのです。

キリストを証しするというキリスト者のあらゆる努力はーー知識も、対話も、行為も、伝道もーーそれが直接他人をキリストに導く力をもちません。

しかし、それにもかかわらず、その「下からの努力」はすべて「上から」の働きかけに対しては、「なけれはならず・あってはならない」位置と意義と役目をもっています。

そのような真理を伝えるためでしょうか、ヨハネによる福音書は、
「この人は、わたしのしたことを何もかもいいあてた」
と証ししたサマリヤの女の言葉によって、イエスの許へ集まった人々をして、
「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。
自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救い主であることがわかったからである」
といわせています。

ここに「証し人」を真にそれたらしめる秘義がかくされています。

【参考】(過越)
「イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。
『今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。
もし、家族が少人数で小羊一匹を食べきれない場合には、隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、めいめいの食べる量に見合う小羊を選ばねばならない。
その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。
用意するのは羊でも山羊でもよい。
それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、 その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。
そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。
また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。
肉は生で食べたり、煮て食べてはならない。
必ず、頭も四肢も内臓も切り離さずに火で焼かねばならない。
それを翌朝まで残しておいてはならない。
翌朝まで残った場合には、焼却する。
それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。
これが主の過越である。
その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。
また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。
わたしは主である。
あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。
血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。
わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。
この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。
あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。」(出エジプト記 12:3-14)


「ラディカルな証言」

聖書によれば、イエス・キリストの誕生は、他でもなく「価値転倒者」の誕生です。

最もユダヤ的色彩といわれるマタイによる福音書においてさえ、イエスは、当時の宗教家の律法観をくつがえして、
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、
『殺すな。
人を殺した者は裁きを受ける』
と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。
兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。
兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」(マタイ5:21以下)
と、それこそ現代的表現でいうなら「ラディカル」な解釈を与えたまいました。

そしてそのようなラディカルな解釈のもたらす結果は、
「あとの者は先になり、先の者はあとになる」
という逆転的出来事なのです(マタイ20:16、21:42以下、23:11、23:12、23:37以下、25:31以下)。

ルカによる福音書は更に進んで、イエスを「ヨベルの年」の告知者として告白することにより、イエスを全面的にラディカルな「価値転倒者」の姿において提示しています。

それはイエスがナザレの会堂で安息日に朗読されたイザヤ書の言葉からも明瞭です。

「主の御霊がわたしに宿っている。
貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。
主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げしらせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」
という言葉を朗読したイエスは、
「この聖句は、あなたがたの耳にしたこの日に成就した」(マタイ4:18以下)
といわれたことがしるされています。

旧約聖書での、神中心の平和共存のプログラムのいわば「実験民族」として選ばれたイスラエルに、その教育の一手段として設けられていた「ヨベルの年」は、貧富の格差を是正するための「無条件的釈放」の年、すなわち、貧しい者にとっての「めぐみの年」です(レビ記25章、及びイザヤ書61章)。

貧しさのため身売りしていた者がその主人の許から無条件に釈放され、貧しさのため手放していた先祖伝来の土地が無条件に返還されるこの「ヨベルの年」は、まさに、富める者が失い、貧しい者が富まされる、という革命的「身分転換」を意味し、革命的「価値転倒」を意味しました。

この「ヨベルの年」の規定は、このように、神中心の平和共存のため、その実験民族として召されたイスラエル人に、能力の不平等な社会に必然的な「各自がその与えられている能力に応じて働き、必要に応じて受ける」、
あるいは、
「より強い者、より賢い者が、より弱い者、より愚かな者の弱さ、愚かさを負う」
という基本条件を教えるとともに、負えない人間と、代わって「負い尽くされた」十字架の主との関係は、ちょうど、償うことのできない罪の負債者と、無条件的釈放者である「ヨベルの年」の告知者(である十字架のイエス)との関係に他ならないことを示すものです。

このような無条件の赦し主である十字架の主の前では、すべての者が認罪としての「負債感に応じて」祝福されるということから、この「ヨベルの告知者イエス」を証しするルカによる福音書は、両親の腕に抱かれた幼子イエスを祝福したシメオンの言葉を次のようにしるしています。

「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり、立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。ーー
それは多くの人の心にある思いが、現われるようになるためです」(マタイ2:34以下)。

全世界は常に既成の価値体系の崩壊という思想が流れています。

時代に生きる多くの人々を捉えているものは、自然的崩壊ということではなく、現体制の破壊という積極的形をとってきましたし、とっています。

それは、時代に生きる人々の価値観からする現体制批判であり、徹頭徹尾「人間中心的」判断を出ない「価値転倒」であり、それに基づく、「自己批判」、ひいては、「自己批判の押しつけ」のように見受けられます。

およそ人間の営みで、自己批判を免れてよいものは皆無だというべきです。

正しい意味の自己批判ほど、生産的なものはないからです。

既成の権威、既成の価値体系の上に、アグラをかきやすい私ども人間にとり、「自己批判」の叫びは、不断の挑戦であることはいうまでもありません。

価値観転倒といい、価値体系の破壊といっても、しかし聖書の語るそれは、全世界を風靡するそれとは、「質的に次元的に」異なっています。

いうまでもなく、社会の下づみになっている者、打ちひしがれている被圧迫者が、祝福の対象とされるというような現象面において、権力者と結びついた現体制の破壊のめざすものと、一脈相通ずる点をもちながら、なお聖書の示す価値転倒ひいては自己批判なものは、前述の人間中心的な判断による価値転倒とは比較出来ないラディカルなものです。

その理由は、聖書は、特定の階級とか、特定の群れを除外例とすることなく、例外なしに人間すべてのうちにひそむエゴイズムが、「全に対する個の背反」として平和共存の条件であるところのものを拒否することを鋭く洞察するばかりでなく、その罪の贖罪者である十字架のキリストをその「処理者」として仰がせるからです。

ローマ人への手紙は、この十字架のキリストとの関係に入ることを「いのちの支配」に生かされる唯一の道として、これを「死の支配」におかれているアダム的、人間中心的連帯性から峻別して、次のように結論しています。

「このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。ーー
それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである」(マタイ5:18以下)。

十字架のキリストとの関係に入れられることは、単なる価値転換というより、さらに具体的に、「身分転換」だということを意味しています。

しかもそのキリストにおける「生命の支配」下に移された「身分転換」は、一回的な「賜物」でありながら、その「身分」を与えられた者に求められる不断の「課題」は、イエス・キリストにおける現実を、この私における現実として「認める」ということです。

それは、
「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを認むべきである」(マタイ6:11)
というローマ人への手紙の言葉に代表的に語られています。

ここに注目すべき「認める」という言葉は、換言すれば、この私の現実においては「未」獲得の事柄を、信仰において、キリストにおいて「既」獲得の事柄として「受けとり直す」ということを意味しています。

そしてこの「受け取り直し」は、パウロによって、それが、価値転倒者イエス・キリストとの出会いの構造として明快に示されています。

すなわち、それが、
「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。
キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている」(ピリピ3:8以下)
という言葉です。

これにつづいて、パウロは、
「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。
そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである」
といい、その価値転倒が超越者キリストに基礎をもつが故に、決して、自己免許のそれではない、まさに徹底的にラディカルで、いかに無限の奥行きをもつ価値転換であるかを示して余りあるものがあります。

聖書の迫る価値転倒ひいては自己批判が決して自己免許のそれでなく、まさにラディカルな性格のものであるということには、深い根拠があります。

それは、いかに、聖書のさし示す神が、フォイエルバッハの考えたような「人間の欲求充足者としての幻想」に過ぎないものと違うかということの証拠ともなります。

つまり聖書は、人間中心的な、したがって人間を規準とする神概念をさばくことにより、神中心的にしか、神は出会われ得ないことを、その全体の記述を通して告げています。

今、その中から、代表的な点のみをひろいあげてみてゆくます。

出エジプトにさいし、選民の指導者モーセが、神の名の解明を求めたとき、神は、端的に「わたしは、有って有る者」と答えたことがしるされています。

そこにはさらに「あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主」とも規定されていますが、その神は、歴史と結びついて、自己を啓示したもうところの「絶対に、人間が対象化したり、傍観することのゆるされない主体なる神」であることがまずあきらかにされています(出エジプト記3:13以下)。

また聖書のさし示す神は、人間的評価とは異なる神的評価の主体であることが次のような句において代表的に語られています。

「わたしが見るところは人とは異なる。
人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(Tサムエル記16:7)。

それゆえこの主は、
「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっている。
天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ55:8-9)
と宣言されています。

これのみではありません。

神の業は、すべて、人の思い、人の予想、人の期待、人の推定、人の判断、人の評価、人の規準を超えて、それとは全く異なっています。

したがって、神の業の中心的事柄ともいうべき「選び」こそ、神的評価の秘義そのものです。

それを表わすのが、
「エサウはヤコブの兄ではないか。
しかし、わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(マラキ1:2)
ということばです。

この旧約聖書の言葉をひいてパウロは、
「まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、わざによらず、召したかたによって行われるために、
『兄は弟に仕えるであろう』
と彼女(リベカ)に仰せられたのである。
『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』
と書いてあるとおりである。
では、わたしたちはなんと言おうか。
神の側に不正があるのか。断じてそうではない。ーー
だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである」(ロマ書9:11以下)
といい、神の絶対自由意志による選びの秘義、したがって、恵みによる選びにかくされた、神的評価を仰がしめます。

ヨハネによる福音書によると、キリスト者とは、
「この世のものでない者として、この世に遣わされた者」
と形容されています。

ところで「この世の者でない者として」ということが果たして私どものうちに、どれだけ掘り下げられているでしょうか。

そのことを浮き彫りにする一つのことは、キリスト者とは、根源的に「キリストにあって神に選ばれた教会の肢」としてのみ、その存在理由と位置とをもつ故に、神的評価の秘義を知る者として、すべての出来事、すべての人間関係、を「受け取り直させられる」という在り方だといえます。

そのような在り方は、人間中心的な、単なるヒューマニズムに根ざすような評価によって生きる周囲の社会の中においては、不可避的に、「問い」を投げかけるものです。

そのような異質的な、超越的評価によって生きるキリスト者の在り方が描く問いの波紋が、そのキリスト者の拠って立つ根源への問いを喚起し、そこに、必然的に生み出されるものこそ、異教社会におけるキリスト者の無言劇を、真に、彼を超えたキリストをさし示し、証しする対話とするのです。

その意味で、聖書において人的評価と異なる神的評価の秘義を仰ぐことこそ、証し人をラディカルに生かす秘義だといえます。

「逆限定の不可欠性」

革命思想は常に「自己批判」を求めます。

もつともこれは単なる自己批判というより、「自己批判の押しつけ」とよぶ方がふさわしいといえるかもしれません。

教会もその例外ではあり得ません。

正しい意味の自己批判なら、生産的です。

「すべての偉大なるものは嵐の中に立つ」といわれています。

教会はいつの時代も社会からの挑戦の嵐の中におかれています。

否「投げ出されて」いますが、果たしてその嵐の中に「立っている」といえるでしょうか。

真に「主体的に立っている」のでなければ、「立っている」のではなく、「流されている」のです。

「批判」といっても、「反省」といっても、その「規準」が確立されていない自己批判、自己反省くらいナンセンスなものはありません。

もちろん時代は、それ独自の「右か左か」という枠からそれぞれの勝手な規準を前提して教会にも問いかけます。

もし教会がそのような「時代の二者択一」をそのまま自己批判の枠として引きうけるとしたら、教会はすでにその「主体性」を全く喪失してしまったことになります。

なぜなら教会の「唯一の自己批判の規準」はその信仰告白としての聖書正典ですから、教会の第一義的な自己批判は、まずこの「正典の規範性」に服するということを措いてはありません。

教会がその中におかれ、投げ出されている時代ひいては社会からの挑戦、あるいは自己批判の押しつけに対して示したその反応が、あるいは世俗化、あるいは非神話化、あるいは非宗教化、あるいは神の死の神学、あるいは非キリスト化への志向として展開してきました。

このような時代ひいては社会からの挑戦に対する教会の応答のし方が、その焦点に浮かび上がらせた問題点は何であったでしょうか。

それはズバリ「規準」の問題です。

そこではほとんどの場合、「現代」が規準とされていて、その結果もはや聖書は規準ではなくなり、聖書が現代人にとって「処理可能な客体」となっているという一事です。

聖書は文献としての性格をもつのですから、一個の処理可能な文書として、それが発生的歴史的判断の規準に任されることは当然許さるべきです。

しかし、それは教会の存在理由や自己批判とは直結する研究方法ではなく、したがって、教会内では、その聖書を教会に対する「信仰と生活の規範」とする正典観が第一義的位置を占めるべきで、その文献観は当然第二義的位置におかれるべきです。

ところが、現今教会の一般的評価は、聖書の発生的歴史的理解を「学問」とよび、その存在理由の根拠であり、唯一の条件である「信仰告白」に服する正典的解釈に対しては、ほとんど顧慮されていません。

すくなくとも、正典的解釈に背を向けない教会人の間においても、正典の規範が「規範として生かされるための条件」を閑却しているのが現代の教会の状況でしょう。

この点が「現代の教会の聖書観における一大盲点」です。

他から押しつけられるまでもなく、その「信仰と生活の規範」として正典を与えられているキリスト教会ほど、その正典を「汝」とする対話を通して、より厳しい自己批判を迫られている存在はないというべきです。

規範が規範として生かされる条件は、「正典の処理不可能性」にめざめることであり、「正典の全体的救拯史的理解」によって「逆限定」されるということです。

「正典の規範性、逆限定性」が生かされる時、初めて教会はその主体性を確立し、時代と直結するのでもなく、断絶して時代から浮き上がってしまうのでもなく、時代に対し、周囲の社会に対し、真に「ラディカル」な存在として生かされるのです。

時代の流れに引きずり下されるか、引き上げるか、のるかそるか、は一に教会がその正しい意味の自己批判、自己反省の「規準」である正典を、自己の低さ・狭さ・浅さにまで引きずり下ろすか、逆に正典の高さ・深さによって引き上げられるかの二者択一にかかっています。

「正典の処理不可能性」

解釈の第一条件は「対象それ自体をして語らせる」ことです。

聖書を正典としてみることは、正典が「規範」として仰がれる対象なのですから、「正典それ自体をして語らせる」ということが正しい正典解釈の不可欠の条件です。

「対象それ自体をして語らせる」ということは、対象の「語るところ」を、その「語られ方」に即して解釈するということを不可欠の条件とします。

対象の「語るところ」ひいては「語られているもの」をその「語られ方」に即して解釈するということは、丁度音楽作品の鑑賞にも似て、その全曲を終わりまで聴くという忍耐を絶対に必要とします。

絵画のようなインスタントな把握はゆるされていません。

全体を聴き終わるということは、その間の読者ひいては研究者の側には、判断停止という一種のサスペンション「懸垂状態」に身をおくということが要求されます。

全体に傾聴するということが、その対象全体をこちらにとっては「処理不可能」な対者(処理可能な「それ(it)」ではなく、「主体」・「汝」)として対することです。

しかしこのサスペンションに、判断停止に耐えられないのが人間の常です。

全体に傾聴する代わりに、始めから勝手な価値判断を下してしまう聖書の見方、読み方は、ちょうど「鹿を追う猟師山を見ず」とか、「木を見て森を見ず」という諺で皮肉に暴露されています。

従来も旧約聖書を解釈する場合、倫理観という時代的評価からその中の預言書だけを高く評価する解釈がとられてきたことがありましたし、聖書全体から浮き彫りにされるイエス・キリストの代わりに、福音書の中の「神の子ではない、人間の友、貧しい者の友なるイエス」を、それぞれの状況に応じて評価する方向の志向がなされていますが、これらはいずれも、聖書全体を、「処理不可能な規準」としてみるのではなく、時代の評価ひいては、現代人を規準とする評価で、聖書を「処理可能」なものとしている実例に他なりません。
 
聖書を正典として、それ自体をして語らせるために、仰視すべき「語られ方」とは何でしょうか。

聖書は、律法をつらねたような六法全書でも、解説書でもなく、また自分の都合に合わせて「このみ言葉」「あのみ言葉」と勝手に選んだり捨てたりするものではなく、それは「歴史的叙述」をもつものです。

歴史的記述といっても、いわゆる一般の歴史記述とは異なり、「信仰によって見直された歴史」であり、それは「救拯史」とよばれる信仰的史観による記述です。

要約すると、「一般史」が人間中心的、人間主体的歴史解釈であるのに対し、「救拯史」は、神中心的、神主体的歴史観による再解釈としての歴史記述です。

旧約聖書は、選民イスラエルの歴史という形をとり、それは「選民の育成」(第一区分「律法」)、「選民の実践」(第二区分「預言者」)、「選民の挫折」(第三区分「書冊」)の三つの時代区分をもつものとして再解釈され、新約聖書は、「子なる神の時代」(第一区分「福音書」)、「聖霊なる神の時代」(第二区分「教会書」)、「父なる神の時代」(第三区分「預言書」)の三つの時代区分をもつものとして再解釈された教会の歴史記述の形で書かれています。

そこに仰がれているのは、「創造主」、イスラエルの「選び主」としての神、隠れて「歴史を支配」する神であり、宇宙の神中心的平和共存に向かって行動しつつ、その救拯のプログラムに人間を参与させ、それに敵する者の意図をも聖旨遂行のために変容したもう歴史の隠れた支配者としての神であり、イエス・キリストにおいて世の初めから教会を選びたまい、やがて終末において「すべての者にあって、すべてとなられる」(Tコリント15:28)神です。

したがって、聖書それ自体をして語らせ、聖書を処理不可能なものとして読むことは、このように、「聖書全体を貫く救拯史」の枠においてこれを解釈し、その枠の中における個々の出来事の「位置づけ」をなすという営みです。

正典の処理不可能ということは、さらにこの全体的救拯史の歴史支配者としての神があくまでも「顕わされつつ隠され、隠されつつ顕わされる」者であるということによっていよいよ深く決定的なものとされます。

この「隠れた支配者」ということは、たとえば旧約聖書のエステル記には、最も象徴的に語られています。

エステル記は、イスラエルが国家の独立を失い、神を知らない異邦ペルシアの権力下におかれ、しかもペルシア王の奸臣ハマンが企てた「選民殺りく」を物語り、そのためにハマンの投げた「くじ」が、「見えない不思議な手」によってハマン自身の上に投げ返され、それが投げ返されるための手段として、か弱いエステルが用いられたことを語るものですが、この書は、そのようにして、「顕われた人的支配をくつがえす隠れた神的支配」を語っています。

そこで注意すべきは、隠れて歴史を支配する神は、人間によって利用される神ではなく、人間によって処理される神ではなく、ただそこでは「人間が用いられる機会を与えられている」という関係に立っているという一点です。

ペルシア王妃エステルは、その民であるイスラエル人の危機に当たって生命を投げ出す機会が与えられているだけであって、それに対しどんな超人間的な干渉が生起するかは全く未知数であるという事態に立たされているのです。

そのことは王妃エステルの養父モルデカイがエステルに訴えた次の言葉によって明示されています。
「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。
あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救いがユダヤ人のために起こるでしょう。
しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。
あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」(エステル記4:12-14)。

このような「隠れて働く神」を仰ぐ者の極限的な姿の劇的描写ともいうべきものは、ネブカデネザルの金像礼拝強請に対して最後まで抵抗しつづけたユダヤの三青年の次のような応答です。

「ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。
もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。
また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。
たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。
わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」(ダニエル書3:16-18)。

以上の例が示すように、歴史の支配者である聖書の神は、「神は死んだ」といわせるまでに「自らを隠す神」であり、したがって人間に対しては、「たとえそうでなくても」といわせる程に、「処理不可能」な関係に立ちたもう神です。

ところで聖書は、そのような「処理不可能な神」を、象徴的に語るのみならず、高度な神学的含蓄においてもその点を高調しています。

イザヤ書はこれを、
「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。
天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ55:8-9)
という言葉で表現しています。

これと似た表現は、Tサムエル記の王の選定にさいして語られた主の、
「わたしが見るところは人とは異なる。
人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(Tサムエル16:7)
という言葉です。

上記のような引用によって、「隠れて支配する神」の含蓄は、「神的評価の不可測性」としての「処理不可能性」であることが明らかに照らし出されています。

神の評価は、人の評価とは異なる、ということです。

そしてこの神的評価の不可測性、処理不可能性、神的評価の隔絶性、という一点こそ、イスラエルの「選び」の秘義そのものです。

この点の深い洞察が格言的に表象化されるようになったのが、
「エサウはヤコブの兄ではないか。
しかしわたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(マラキ書1:2)
という言葉です。

この神的評価の秘義を凝集的に語る言葉がいかに深い神学的含蓄に富むものであるかということは、パウロが、ローマ人への手紙九章において、神の選びが、
「わざによらず、召したかたによって行われる」(ロマ書9:13)
という、神の絶対自由に基づくことの論拠としてこの言葉を展開していることにおいて明らかです。

「正典の逆限定性」

聖書は単数をもってよばれる一巻の書でありながら、六十六冊という複数からなっています。

そのような聖書の一巻性は「多彩性における統一」とよばれるべき複雑な構造をもっています。

しかも聖書においては、その「多様性」ひいては「多彩性」は書物という形で顕わであるのに、その「統一性」は、厳密な意味では全く隠されています。

その「隠された統一性」こそは、聖書が、教会を常に先行する聖霊によって結集されたことにおいて「上から」賦与されたものです。

その意味で「聖書の著者は聖霊である」といったルターの言葉は全く至言です。

ということは、聖書をその多彩な個々の書物相互の「つながり」方において解釈するのでなければ、人は、教会の信仰にふれてゆくことは出来ないということを意味しています。

何となれば、個々の書物は、他とともに新しく正典の中にその特定の位置において関係づけられて初めて、教会の信仰表現の「一担い手」とされたのだからです。

換言すれば、その正典の中の各書の配列とつながり方の特定の枠において、聖書の発想法の高さ・深さ・広さが語られているということです。

それなのに私ども読者は、常に自己の低さ・浅さ・狭さを示す枠でこれに対し、その結果、聖書のその特定の枠を閑却するという宿命的傾向をもっています。

つまりいやしがたく前提的な私どもは、自分の枠をもって、聖書の独自な高さ・深さ・広さを常に「限定」しつつ解釈しているのです。

聖書それ自体をして語らせるためには、聖書を「処理不可能な汝」として、こちらからは判断停止のサスペンションに身をおかねばならないのに、そのサスペンションに耐えず、自己の価値判断をもって、聖書の独自な判断を「限定」してしまうということです。

したがって、正しい聖書解釈ということのためには、私どもの「下から」押しつける枠が、聖書それ自体の枠によって、逆に限定し返されるということが、不可欠な条件となります。

「換言すれば証言する者は証言せられる者を指示すると意識しながら、しかもその言語と表現の性質上(つまり有限的で相対的な)その指示は証言する者自身の証言せられる者へむけての自己表現でしかなくなる。
この場合証言せられる者たるキリストはこの自己表現的指示がご自身にむけられるとき、これに対して自己をもって答えたもう。
しかしこの答えはその指示に対して当然上よりの限定となり、否定とならざるをえない。
超越者としてのキリストがその無限の恩寵を示したまえば示したもうほど、その示されし恩寵は、証言する者の自己表現的指示に対して限定となり否定とならざるをえない」
とは聖書の世界的な体系学者・渡辺善太博士のこの点の含む動的構造の勝れた解明です。

「上からの逆限定」によって解釈者の側からの、つまり「下からの限定」が「逆限定」される、ということに関しては、二つの側面がみられます。

聖書が教会によって正典とされたことを、教会は、暗黙のうちに、それを、教会に先導したもう聖霊の他動的な働きとして受けとってきたのです。

そうすると、聖書が結集された現形というものは、すでにその瞬間において聖霊によって枠づけられたことにより、多彩性という個々の下からの限定に対する「上からの逆限定」であるといわねばなりません。

そうだとすれば、解釈者は、聖書の現形に表わされた「つながり」方に引き入れられ、そこに意味づけを見出すことを通して、ある程度「上からの逆限定に与る」ことが許されていると結論すべきでしょう。

福音主義的教会がこれまで「聖書を通してのみ神は教会に語りたもう」と確信させられてきたと同時に、「聖霊もまた聖書を通して働きたもう」という信仰に立ってきたことに対する具体的解明はこれだといえます。

そこに、聖書が単なる証言として他の宗教文書と並ぶものでなく、「特殊証言」として他から隔絶的に仰がれるゆえんがあります。

以上のことから、「正典の逆限定性」とは、正典の現形の全体的つながり、ひいてはその特定な枠によって、解釈者が拘束されるということに他ならず、したがって聖書を貫く救拯史的枠によってその発想法を拘束されるという努力に他なりません。

この「つながり方」はしかし決してなだらかな直線的のものではありません。

「個性は無尽蔵です。」

「唯一のキリストをさし示す聖書の各書のさし示し方は個性的」です。

唯一のキリストを個性的にさし示す各書間の「つながり方」は、個性的かけがえなさをもつが故に、「足し算」の出来るようなつながり方ではありません。

「足し算」という平板的妥協の道としてのつながりではなく、相互が割り引きなくその主張を戦わせ、その結果押し上げられて生まれる、より高い一致点を求めてゆくという「掛け算」による道としてのつながりであるべきです。

それは丁度「三人寄れば文珠の知恵」という諺が示唆する、ディスカッション的関係に類したものといえます。

妥協することなく三人がその主張を戦わせるうちに、その三人の意見の単なる総和ではなく、三者のそれを「超えた」新しいものが結果してくるのです。

それは新しいもの、与えられた創造的なもの、上からの賜物とでもいうような性格をもつので、人の知恵でなく、「文珠の知恵」すなわち私どもに対しては「神の知恵」の投影とよばれるにふさわしいものです。

ところが、事信仰のことになると、人は相剋・対決・止揚という立体的方向を選ばず、妥協・調停・調和という平板的方向をとり勝ちです。

しかしそれでは、聖書がその個性的多様性をもつ六十六冊を通してしか語りえない教会の信仰の高さ・深さ・広さにふれることは出来ません。

したがって、聖書の求める個性的、相剋的解釈に熟するためには、聖書と対話すると同時に、他の個性的に相剋し合う隣人と対話することで、聖書の「語られ方」が、私どもに要求している相剋的逆限定を受けとめてゆく鋭敏な感覚を刺激されてゆくことが不可欠です。

しかし、そのような「他者との対話」への意欲と同時に、他の不可欠な面も閑却されてはなりません。

それは、処理不可能な聖霊の「上からの働き」に対して、つねに心を開いているという姿勢です。

「神によって生まれる」ということは、ヨハネによる福音書によれば、「血すじによらず、肉の欲によらず、人の欲にもよら」ないで、ただ「思いのままに吹く風」のような、自由な聖霊の働きによるのです(ヨハネ1:13、3:6-8)。

【参考】
「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:13)

「肉から生まれたものは肉である。
霊から生まれたものは霊である。
『あなたがたは新たに生まれねばならない』
とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
風は思いのままに吹く。
あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。
霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハネ3:6-8)


イエスはくり返し「わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない」とのべられています(ヨハネ6:37、6:44、6:45、6:65、15:16)。

【参考】
「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。
わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」(ヨハネ6:37)

「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。
わたしはその人を終わりの日に復活させる。」(ヨハネ6:44)

「預言者の書に、
『彼らは皆、神によって教えられる』
と書いてある。
父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。」(ヨハネ6:45)

「そして、言われた。
『こういうわけで、わたしはあなたがたに、
《父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない》と言ったのだ。』」(ヨハネ6:65)

「あなたがたがわたしを選んだのではない。
わたしがあなたがたを選んだ。
あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15:16)


「父が引きよせるのでなければ」とは、いうまでもなく、「上からの聖霊の働きがなければ」ということを意味します。

こうして、「上から」と「下から」との関係を断絶的に語りつつ、ヨハネによる福音書はそこにきわめて明快な関係づけを与えています。

それを語るのが、ガリラヤの「カナの婚礼」の記事です(ヨハネ2:1以下)。

婚礼の宴に不可欠なぶどう酒の欠如をイエスにその母が訴えたとき、イエスは、
「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。
わたしの時は、まだきていません」
というきびしい言葉をもって、「下から」の者が、「上から」の働きを処理し、利用することの可能性を拒否したまいました。

しかしそれで終わったのではありません。

イエスはしもべらに「かめに水をいっぱい入れなさい」と命じられました。

これは何を意味するのでしょうか。

私どもは、「下からの者」として「上からの働きかけ」を絶対に処理し、利用することは許されない。

しかし、「上からの働きかけ」(聖霊の働きかけ)を仰ぎ望みつつ、下からなしうるすべてをなす、という姿勢への訴えです。

「隠れて歴史を支配したもう神」の世界とは、すなわち「賜物に先立たれた課題」という原理の支配によって動かされる世界ですが、そのような信仰の世界での「上から」と「下から」との関係は、まさに「上から」の働きかけに対して、「下から」の努力は、「なければならず・あってはならない」といわれる関係です。

これこそ「首をくくる時の踏み台」の位置と役目によって最もよく象徴される関係だといえましょう。

正典による逆限定のみが、教会の肢である証し人をこの世、この時代に対する真に「ラディカルな証人」として生かす根本条件です。

ヨハネによる福音書によると、イエスの言葉によって「拘束」されることが、即ち「自由」であるというのです。

「もしわたし(イエス)の言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。
また真理を知るであろう。
そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ8:31-32)
といわれています。

「イエスの言葉のうちにとどまる」、というイエスの言葉によって「拘束」されるという関係は、他のところでは、ぶどうの木とその枝のそれとしてのべられています。

「わたし(イエス)はまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れをしてこれをきれいになさるのである。
あなたがた(キリスト者)は、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。
わたしにつながっていなさい。
そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。
枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
わたしはぶどのう木、あなたがたはその枝である。
もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」(ヨハネ15:1以下)
といわれている通りです。

これまでの用語でいえば、正典による逆限定こそ、自由の源、創造性の原動力だということです。

「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる」(ヨハネ16:13)
というイエスの約束の言葉は、他でもなく、私どものおかれている教会時代をさすものなのです。

しかも私どもの属している教会は、聖書のいうところによれば、世の始めから「イエス・キリストにあって選ばれたもの」であり、「神はキリストにあって、天上の霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さった」(エペソ1:3-5)ものです。

キリスト教の倫理を「創造の倫理」として展開しているベルジャエフも、
「真の創造活動はつねに聖霊のうちにおいておこなわれる。
なぜなら聖霊のほかには、神の恩寵と人間の自由との結合がはたされる場所がないからである」
という傾聴すべき言葉を語っています(『ベルジャエフ著作集』3、白水社、二九九頁)。

しかし、聖霊の自由な働きによる創造性、人間の不完全がイエス・キリストの完全によって神の前に受け容れられるその祝福の無限性を約束するイエス・キリストとのつながりは、革命的な、不断の、「価値転倒」としてのそれであることに注視されます。

「わたし(パウロ)にとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。
わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。
キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている」(ピリピ3:7以下)
とパウロは告白しています。

「価値転換」こそ受け取り直しの動因です。

正典の発想はあくまでも「神中心的」であり、それにひきかえ、人間の発想は、キリスト者のそれでさえ、いやしがたく「人間中心的」です。

したがって、聖書を貫く救拯史は、人間中心的歴史解釈の、神中心的歴史解釈による信仰的受け取り直しであると書きましたが、イエス・キリストにおける価値転換こそ、キリスト者をラディカルな証人に追いこむ原動力であるはずです。

「証し人」が、神中心的発想法の源である正典によって真に逆限定されているとき、その無言劇は、無言のうちに、その周囲に対して、必ずや「問い」となる筈です。

イエスは彼に代わって送られる聖霊の働きに言及して、
「もしそれ(聖霊)がきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。
罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。
義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。
さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである」(ヨハネ16:8-11)
といいたまいました。

冒頭に、キリスト者が、この世、この時代と直結して、そのう固有性を失い、異質性を失って、この時代の流れと同化してしまうところには、もはや「問い」かける者としての証し人はあり得ません。

キリスト者の無言劇が「問い」となるには、「この世の者でない者としてこの世に遣わされている」者としての性格、即ち「上から」の逆限定を不可欠とするといえます。

そしてその証し人の在り方が何らかの意味で、その周囲の人々に対して「問い」となる時、初めてそこに「対話」への手がかりが生まれてきます。

特定の時代、特定の状況から、この証し人に向かっても、逆に「問い」が投げかけられるのはいうまでもありません。

そのような特定の状況から浮かび上がる問題をめぐって交わされる対話や対論の焦点には、つねに、たとえば「平和共存の実現方法」ということが際立つはずです。

結論的にいえば、このような問題究明において指摘される「全に対する個の背反」の処理法をめぐつて、正典的発想法によって逆限定されている者は、この点を内在的に、楽観的人間観に基づいて論ずる立場の不徹底性をあばき出すに違いありません。

「正典的聖書教育」

この「正典的聖書教育」の本題に入る前に、下記の【注】をお読みください。

【注】
神学の歴史は、「正統主義神学」「自由主義神学」「中庸主義神学」「弁証主義神学」の四つです。

それら四つの聖書正典観の立場は、きわめて特徴的な性格を示し、それぞれ特徴的な功罪があります。

@正統主義神学は、「聖書は神言である」とする立場、
A自由主義神学は、「聖書は人言である」とする立場、
B中庸主義神学は、「聖書は神言を含む」とする立場、
C弁証主義神学は、「聖書は神言となる」とする立場、
となります。

この功罪をみると、正統主義神学は、聖書を神の言葉で「ある」と主張しながらも、これが神の言葉であるためには、「聖霊の内的証示」が必要であるとしてきました。

神の言葉で「ある」聖書は、そのままで他者の助けなく神の言葉で「ある」はずですのに、それが神の言葉であるためには「聖霊の内的証示」を必要とするといわれてきたのです。

もし「神の言葉」であるために「聖霊の内的証示」が必要であるとすれば、その聖書は神の言葉では「ない」のであり、それが聖霊によって神の言葉に「なる」とき、初めてそれは神の言葉で「ある」といわるべきでした。

この一見簡単きわまることが、神学的に解明されるためには、そしてルターの信仰的把握が明瞭にされるためには、弁証法神学が出現するまで、実に四百年の歳月が必要だったのです。

しかしこの弁証法神学の聖書「正典」観は、聖書「正典」の「他動的結集観」(聖霊による結集)に立ち、その「正典性」と「文献性」とを区別し、そのきわみついにこれを分離に至らせたところに、その特徴と誤謬とをもっています。

聖書正典の「他動的結集」を主張しながら、具体的論述に至ると「現正典」(我々が手にしている聖書)を絶対的に確実なものと見ず、神により天において決定された「原正典」または「真正典」が、人間によって受け取られた可謬的にして、永久性を欠く正典であるとし、その限界性の否定に終わっています。

しかし正しくは「聖書は神言にして人言であり、それが神言であるのは、それが聖霊によって神言となることにおいてである」という聖書の本質観を基底とする正典観は、必然的に、「聖書は正典にして文献であり、それが正典であるのは、それが聖霊によって正典となることにおいてである」という正典観となるべきでしたが、それはついに、なり得なかったのです。

弁証主義神学の聖書正典観が、正しく捕えながら、正しく徹底させることが出来なかった正典観を、正しく徹底させることこそ、今後のプロテスタント聖書正典論の課題なのです。


「移り変わる神学と正典的聖書教育」という主題を問うのは、「この世の者ではないものとしてこの世に遣わされている」教会、ひいてはその肢であるキリスト者です。

遣わされているという、「存在理由」をもつ者としてこの世におかれている教会は、つねに特定の時代において証しするものとして、その特定の時代を無視することは絶対に許されません。

急速な時代の変遷の中での「存在理由」は、必然的に、「遣わし主」からの垂直的問いかけと、「時代」からの水平的問いかけとの「関係づけ」であり、したがって各自はそれに「主体的」に答えるより他ありません。

移り変わる神学は、いわば垂直的問いかけと水平的問いかけとの「結びつけ方」の多彩性を示し、時計の振子のように、右へ左へと大きく揺らいできました。

そしてその神学が語られるには、常にそれがその特定の時に、特定のところで当然生まれるべき歴史的、背景的な必然性があるのです。

しかもすべて神学は、聖書「から」出てきています。

しかし聖書「から」であって、「聖書へ」ではないところに問題があります。

たとえば、聖書の中には、フォイエルバッハの「宗教は幻想である」という断定をかりるまでもなく、そのような発想を否定的媒介として、御利益宗教に陥らない創造主への応答を示し(ヨブ記)、また「神の死の神学」の出現を待つまでもなく、聖書は、「神は死んだ」といわせる地平において、隠れた神の歴史支配を、「今あたかもここに見る」かのように決断させる者を仰がせています(創世記、エステル記、ダニエル書など )。

【参考】
(創世記)
「ヨセフは兄たちに言った。
『恐れることはありません。
わたしが神に代わることができましょうか。
あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。
どうか恐れないでください。
このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」 ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。」(創世記 50:19-21)

(エステル記)
「モルデカイは再びエステルに言い送った。
『他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。
この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。
この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。』
エステルはモルデカイに返事を送った。
『早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。
私も女官たちと共に、同じように断食いたします。
このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。
このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」(エステル記 4:13-16)

(ダニエル書)
「王は彼らに言った。
『シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、お前たちがわたしの神に仕えず、わたしの建てた金の像を拝まないというのは本当か。
今、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえると同時にひれ伏し、わたしの建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。
もしも拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。
お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか。』
シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えた。
『このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。
わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。
そうでなくとも、御承知ください。
わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」(ダニエル書 3:14-18)


蛇足ですが、最初の創世記のヨセフの眼目は、「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが」(「一般史」、現実の歴史)、「神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」(「救拯史」、信仰によって見直された歴史)。

次のエステルの眼目は、「このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」にあります。
偶然とも見える異邦の帝王の王妃としての位置を、隠れた歴史支配者の与え給うた神的必然として、「受け取り直す」自由が信仰的決断となっています。

シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三青年の眼目は、「そうでなくとも、御承知ください。」にあります。
「神は死んだ」と言わせるまでに自らを隠しつつ歴史を支配する神の勝利を、あたかも今ここに見るように決断するという信仰的冒険を訴える書です。

また聖書は、概念化され、対象化され、過去化された神信仰を不断に粉砕せずにはやまない、上からの「問いかけ」をもって満たされています。

ところで、移り変わる神学は、たしかに既成の伝統の上にアグラをかき、特権意識の中に閉じこもりやすい教会を覚醒させるためにも不可欠な挑戦です。

「判断の規準の所在」

◉聖書が総体としてさし示すキリストよりも、福音書のイエス、「人間イエス」のみを、なぜ取り出さなければならないのでしょうか。

◉「聖書の告示するイエス・キリスト」をさけて、なぜわざわざ「リアリティー」とか、「原点」という用語で置き換えようとするのでしょうか。

◉キリスト教の真理に「普遍妥当性」というレッテルをはられなければならないのでしょうか。

それぞれの思想はそれぞれの判断の規準をもっています。

ただここでイデオロギーは、一面の真理の絶対化であり、それをもって全体を含む体系とすることを強要し、したがってそれは究極的には「人間による人間の絶対化」をはらんでいます。

教会は、「聖書の中の一部の真理を全体の真理に代える」ことに対して「異端」の本質をみてきています。

こうなると、「移り変わる神学の動向と聖書教育」という主題を問うのは「誰か」という問いは、教会の「存在理由」を問うとともにその固有な「判断の規準の所在」へ導く問いであると結論できます。

好むと好まざるとにかかわらず、教会は、「旧約聖書と新約聖書とをその信仰と生活の規範」すなわち「正典」として告白しています。

換言すれば、「見えないキリストをかしらとするからだである教会」(キリストの可視的存在)の存在理由は、その「見えない教会」との逆説的緊張を、ただ正典を判断の規準として生かすことにおいてのみ、保たれます。

すると問題は、正典の規範性を生かす条件は何か、ということにしぼられてきます。

教会の存在理由への問いは、その固有な判断の規準の生かされる「条件」への問いとなります。

教会教育の志向する目標は、時代の流れの中での主体的あり方の確立である限りにおいて、それはもっとも十全に、正典を規範として生かすような聖書教育によって果たされます。

移り変わる神学は、垂直的問いかけと、水平的(時代的・社会的)問いかけの結びつけ方の多彩性を示しますが、教会は、その信仰告白の示す通り、「垂直関係によって水平関係を規定する」ことにその「存在理由」を見出しています。

この秩序は、聖書を処理不可能な汝としての「正典」として対しつづけることによってしか貫き得ないものです。

世俗化ということが教会の在り方の本質問題として云々されてきました。

しかしこれは旧約聖書の「選民としてのイスラエル」の在り方として規定された、「祭司の国」「聖き民」という規定の前者に当たります。

つまり、選民の存在理由は、万民の罪を負うて神の前にとりなすということである限り、万民に向かって「開かれている」という性格を意味します。

聖書のいう世俗化はここから起こります。

この「開かれている」という「祭司の国」ということは、他方の極である「聖き民」すなわち「閉ざされている」という性格との逆説的緊張においてしかその存在理由を保ちえないし、その存在理由を保つための両性格の緊張は「神の言葉への現在的聴従」によってしか貫き得ないのです。

「移り変わる神学の動向と聖書教育」という提題は、「ミイラ取りがミイラにならないような」神学し方を問うているのです。

ここで「たとえ信仰者といえども、ひとはつねに自己をできるだけ拡大し、その結果、神をできるだけ縮小する傾向性をまぬがれない」といったバルトの鋭い洞察が、新鮮なひびきをもって甦ってきます。

信仰者といえども、「水平から垂直へ」という規定し方の方向に不可避的に引きずられていきます。

それなればこそ、教会がその遣わし主からの垂直的問いかけと、特定の社会や時代からの水平的問いかけを、在るべき方向に結びつけるためには、主客の秩序を問い、「主客の逆転を迫るような」正典的聖書教育が不可欠なのです。

極論すれば、キリスト者といえども人間はつねに、人間中心的発想法に捕われています。

それに対し、聖書の示す信仰的発想法は、「神中心的」のそれです。

したがって「水平からの問い」は不可避的に、人間中心的発想法を反映していますから、それと質と次元を異にする答えとは直結させられません。

より低い者は、より高い者を理解することは至難です。

ましてや次元が異なればそれは不可能です。

つまり、それは「問う者」が主人公の位置からすべり落りて、逆転的に「問われる者」となるということを不可欠とします。

聖書のさし示す主を主とする主客逆転は、人間の自力のよくするところではありません。

しかし、正典を正典として教会に迫りたもう者を聖霊として前提させられてきた教会は、神の側にしか開くトッテ(ノッブ)のないドアである正典を、それをあちら側から開きたもう者の働く場(ドア)として確信させられてきました。

【参考】
「『求めなさい。
そうすれば、与えられる。
探しなさい。
そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。
そうすれば、開かれる。」(マタイ7:7)


上からの、否、先行する恵みによって叩かしめられる正典への聴従が、上から最もよい時においてなされる主客逆転を仰ぎ望みつつ遂行するのが、下からの営みとしての正典的聖書教育でしょう。

そこで「正典的聖書教育」で重要なことは「正典的聖書解釈」には二方向あるということです。

聖書それ自体は、あらゆる他の一般文書の中の一つとしての性格、すなわち「文献性」と、教会の信仰と生活の規範としての「正典性」とをもっています。

この両性格は、いずれを対象として研究を進めるかによって、一は他に対して「なければならず・あってはならない」ような「否定的媒介」としての位置と意味とをもちます。

したがって、正典的解釈を進める者も、文献的解釈との差異に目ざめていなければなりません。

しかし、ここに与えられている「移り変わる神学の動向と聖書教育」という主題を検討するためには、「聖書の規範」を信仰的判断の規準として生かすことをもって、教育の志向する「主体性」確立の基礎として、正典的聖書解釈にしぼってみてゆきます。

正典的解釈を、即物的と対決的の二方向に分けて進めてみていきます。

「即物的方向」 

聖書が信仰と生活の規範、すなわち信仰的判断の「規準」として生かされるためには、「即物的」解釈をその第一条件とします。

即物的解釈とは、対象「それ自体、全体をして語らせる」ための条件です。

このことの徹底を欠いては、「規範」が「規準」とはならず、処理可能な証拠章節、または参考書になってしまい、処理不可能な「汝」としての正典ではなくなってしまいます。

正典に即した解釈とは、正典の全体を貫く自己主張を捉える方向を意味しますが、「全体」を貫く自己主張とは、音楽の作品にたとえれば、その中の材料としての音符の平面的羅列としてみるのではなく、それらにおいて、それらを貫く「メロディー」をくみとるという営みによって浮かび上がるものです。

このような即物的解釈とは、対象それ自体の表現(様式)に即して内容をくみとる操作です。

正典の表現(様式)は、六十六冊からなる一巻という構造が示すように、それはあくまでも「多彩性における統一」という表現(様式)からなっています。

したがって、即物的解釈の課題は、この「多彩性における統一」という語られ方に即しつつ、その全体を貫くメロディーを把えるということです。

つまり、正典に即した解釈とは、その中の部分、その中の各冊は、全体を貫くメロディーのためには、それぞれが不可欠な、かけがえのない位置と役目を担うものとして、その位置と役目の必然性が究明されることに他なりません。

そのためには、部分から全体へ進み、また全体から部分の解釈へという、いわゆる循環が要求されることになります。

結論的にいうと、正典を貫くメロディーとは「救拯史」即ち、信仰によって見直された歴史です。

旧約聖書は選民史の形でのべられ、新約聖書は教会史の形でのべられていますが、それらは一貫した「救拯史」をなしています。

結論的に言うと、正典の即物的解釈とは、旧約聖書と新約聖書の歴史の担い手であるイスラエルとともに、そして教会とともに、その救拯史を踏み直してゆく「追踏」を、その課題としています。

聖書教育が、神学教育とは異なり、その基礎教育として、特定の神学者の神学的断定を概念的、対象的に理解するのではなく、イスラエルとともに、教会とともに、その救拯史を一歩一歩、共に、踏み直すところにこそ、信仰的、主体的在り方を目ざす教育の特色が発揮されるのです。

その救拯史の構造は、旧約聖書では、選民の「育成」「実践」「挫折」という時代別的展開を通して、つねに、人間中心的歴史解釈が、神中心的歴史解釈によってさばかれ、止揚され(高められ)つつ展開しています。

宇宙救拯のため、ひいては、神を中心とする「万民の共存共栄(神の国)」のいわば「実験民族」として、恵みにより、無条件的に選ばれたイスラエルは、その教育を通して、不平等な人間社会の共存共栄の絶対条件として、「より強い者、より賢い者が、より弱い者、より愚かな者の弱さ、愚かさを負う」という在り方を示されつつ、いかに、「負えない」者であるかを暴露させられた歴史がそこに多彩に描き出されています。

その救拯史は、そのまま、下からの選民の低さ・狭さを示す粋が、創造主、歴史の支配者によって上から、いかに破られたかを語り、「負えない」選民に代わって万民の罪を負う「在るべき選民」の在り方が「苦難の僕」の幻(第二イザヤ)と、「聖なる名のための選民の回復」との対応において(エゼキエル書)高く・広くさし示されています。

選民の失格の時代においては(書冊)、異邦権威の下に投げ出された者として、「隠れて働きたもう歴史の主」を仰ぐ生き方が「神は死んだ」といわせるような地平にあって、隠れた歴史の支配者を、あたかも今ここに顕わに見るかのように、神の勝利を「先取り」しつつ、決断的に生きる在り方が、これをイスラエルと共に踏み直す者のうちに、教会の在るべき信仰的、主体的姿勢として迫っていきます。

しかも、そこには何ら、律法的、一律的、一掃的な語り方はされておらず、上から(預言者)、下から(祭司的)、横から(知者的)というように、多角的、多彩的、多次元的な訴えがその特色をなす故に、その選民史をイスラエルとともに踏み直す即物的解釈者は、その救拯史を貫いてさし示される歴史の主の教育者的配慮の高さ・深さ・広さに驚たんを禁じ得ないでしょう。

新約聖書もまた教会の聖霊降臨による創設を語る使徒行伝を鍵として第一区分を、「教会の過去」(神の国宣教時代)、第二区分を、「教会の現在」、第三区分(黙示録)を、「教会の終末」とする時代別で展開されている教会史としての形をとっています。

イスラエルとともに選民史を踏み直す即物的解釈者にして初めて、新約聖書冒頭のマタイによる福音書とともに、受肉の神の子イエスを、「負えなかった選民に代わって、万民の罪を十字架上に負いたもう在るべきイスラエル」を、「真のイスラエル」キリストとして告白させられるというべきでしょう。

マタイによる福音書によれば、イエスは、旧約聖書に約束されたメシヤであるだけでなく、「失格した選民史を踏み直す」(哲学も如何ともし難い、と言われる「過去」を変える)メシヤだからです(マタイ2:15、3:15、4-5章など)。

またイスラエルの選民史を踏み直す即物的解釈者にして初めて、
「時は満ちた、神の国は近づいた。
悔い改めて福音を信ぜよ」
というイエスの宣教第一声(マルコ1:15)をきくとき、その十字架を、救拯史の文脈の中から抽象することなく、十字架と神の国との不可分離性、ひいては、十字架と万民共存共栄の条件の不可分離性をともに受けとることが許されるのです。

救拯史的文脈においては、「神の国の告示者」すなわち、「より強い者、より賢い者が、より弱い者、より愚かな者の弱さ、愚かさを負う」という共存共栄の絶対条件を宣教したイエスを十字架にかけたのは、平和(共存共栄)を求めつつも、その条件を満たす要求を拒否せずにはやまない人間のうちに巣食うエゴイズムであり、そこに、イスラエルのみでなく、人間すべての、否私自身のエゴイズムを、そしてその唯一の処理を、そこに見せつけられずにはすみません。

選民史との対応により即物的解釈者は、初めて、ルカによる福音書の提示する「神の国キリスト」(ルカ17:21)が、「主のめぐみの年」を告げ知らせる「ヨベルの年の告知者」(ルカ4:17-19)として告白されている必然性をにぎらされます。

「ヨベルの年」の規定(レビ記25章)は、貧富の懸隔を是正する社会規定であり、「力量に応じて働き、必要に応じて受ける」という共存共栄のための不可欠な原則、したがって、より強い者、より賢い者に、他の弱さ、愚かさを負うという訴えの社会的配慮を要請するものに他なりません。

以上のようなごく大ざっばな輪郭の紹介を通しても、聖書が単に個人の魂の救いのみに集中して、社会的配慮に乏しいというような結論が、いかに救拯史的解釈、即物的解釈を無視した結果の誤った結論であるかが、あきらかになります。

そこにはもちろん「根源的解答と直接的解答の質的差異」の認識が不可欠です。

ヨハネによる福音書によれば、「神の小羊」として指し示されるように受肉したイエスは、「アブラハムの生まれる前から」いた「先在のキリスト・原歴史キリスト」として「ロゴス・キリスト」です(ヨハネ1:1以下、8:56など)。

先在のキリストは、もはや旧約聖書の「預言」というヴェールに包まれた者ではなく、今ここにいます「証言」の対象です。

ヨハネによる福音書の深くほりさげる証言の構造は、旧約聖書全体すなわち、選民史をも「キリスト証言」として再解釈させるのみではありません(ヨハネ5:39)。

この書の即物的解釈は、その証言の徹底的な開示のゆえに、教会をして、誤った律法主義・教条主義、ひいては致命的なイデオロギー化からめざめさせる原動力となり、エネルギーとなります。

そこには前述の「主客逆転」の構造が、証言者(キリスト者)と被証言者(キリスト)との次元的峻別において述べられているのみでなく、「顕われた者(証言者)は隠されたキリストをさし示す否定的媒介」であるに過ぎず、隠されたものは顕わされるためであり、顕われたものは隠されるためである、という証言の逆説的構造において展開されているからです。

しかも、そのような逆説的体認は、人間の作意や強制によるものでなく、「証しさせる者」としての聖霊が 「原証言者」として働くことによることを明示しています。

救拯史的展開の文脈において、このような原証言者としての聖霊の位置が仰がれるときに初めて、教会は、「わたしの時はまだ」きていないというイエスのみ言葉に、人の時とは異なる神の時を「待つ」ことを教えられ、あせることなく、まず手近な「かめに水をいっぱい口」のところまで満たす日常の業に、生きがいを見出せるでしょう(ヨハネ2:1以下、7:6、12:23など)。

イエス・キリストの霊である聖霊の降臨により立てられた教会のかしらこそ、真のイスラエル、神の国キリスト、教会キリストとして、まさに「救拯史キリスト」です(特に使徒2章、エペソ1:23、黙示録12:10、22:12-13など)。

救拯史的遠近法の中において即物的解釈者は初めて、その地上の教会の一切の破れと・欠けと・汚れと・弱さと・誤りと・失敗にもかかわらず、イスラエルの選民史が証されたように、「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変わらせる」(創世記45:1-8、50:19-20)という隠れて働く歴史の支配者、悪意をもその聖旨遂行の具として「変容」し、「逆用」したもう、歴史の支配者への確固不動の信仰を告白させられるのです。

「対決的方向」

聖書正典の規範性は、「今ここ」という特定の歴史的状況において生かされない限り、空転します。

したがって先の「即物的解釈」も、この「対決的解釈」のためという位置を占めています。

即物的解釈では正典の全体を語らさせるため、あらゆる先入観や前提、ひいては問いさえも「括弧の中に入れて」、正典の自己主張に聴くという姿勢が要請されたのに対し、対決的解釈では解釈者自身、時代からの「問いかけ」の権化となって、その「問い」に対する正典の答えを聴き、その答えを自己の主体的告白として提示することになります。

学問の分野からいえば、教会教義学の中の、基礎的分野に当たります。

ただ肝要なことは、時代の問いを「生のまま」正典の中にもち込んで、それに答えせさる、ということではないという一点です。

「この世のものではないのに、この世に遣わされている」教会は、その異質性の故に、様々の形で、この世、この時代から、その存在理由を問われつづけています。

隠れた歴史の支配者を仰ぐ者としてのキリスト者であっても、時代の子であり、時代の言葉を語り、時代の発想法の中に生きていますから、その問いは、時代的発想法から抜け出ることは不可能です。

そしていつか、問い方を知らない人間中心的欲求の表現である問いに、「直接」答えるという誘惑に敗けてしまい勝ちです。

根源的答えは、直接的答えを拒否せざるをえないという真理は忘れられ勝ちです。

この対決的解釈の構造を象徴的に語るのは、「カナの婚礼」の記事です(ヨハネ2章)。

婚礼の席(この世)でぶどう酒(楽しみの元)がなくなったとき、その欠乏を補いたいという欲求をイエスにとりついだその母(教会)にイエスは、
「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。
わたしの時は、まだきていません」
と、その問いに対する「直接的応答」を拒絶したまいました。

神の支配は、あくまでも、隠れた時と、隠れた所と、隠れた方法とにおいて遂行されるのであって、人間の利用可能な、処理可能な時でも、所でも、方法でもないのです。

しかしこの直接の否定は、単なる拒絶ではありません。

「神の時」が「人の時」と異なるということを知らされたことで、初めて、人は「水をかめに口まで一杯に満たす」という、正しい志向性、正しい待ち方を学ばされます。

そのような差異性と志向性とを見出すために、時代からの「問いかけ」をとりつぐその問いは、「なければならず・あってはならない」ものなのです。

これが、正典を場とする、問いと答えの弁証法的関係づけです。

ヨブ記もこの対決的解釈に対して光を投げています。

「義人が何故に苦しむか」というヨブとその友人との長い論議の末に、これまで第三者的としてしか語られていなかった神が、創造主としてヨブに対決し、「私と汝」の対論がその結論をなしていますが、そこにはヨブの「無知」があばき出されています。

その無知とは、極論すれば、ヨブの中には「義人は苦しむはずがない」という前提があり、その前提が破られない限り、ヨブは創造主を主と仰がず、自己が主人公として、その前提の中に神を組み入れ、自己の問いに対して答える神、いわば人の利用しうる神、「作業仮説の神」を追求するという、致命的な主客逆転のとりこであるわけです。

このような主客逆転を迫る正典的場において、このヨブのように、真に「問う者が問われる者」とされるということの具体的出来事が期待されるのです。

このような開放性は、単独に保ちうるものでも、単独に修得しうるものでもなく、それと同主題をかかえて、しかも正典において、正典自身のその主題における「自己限定」(自己主張)をきこうとする複数の解釈者の間に、その個性的差異を手がかりとして、真剣な対論が生み出されることを前提するものです。

各解釈者間の「対論」「討論」「対決」を結果させることは、各自が実は、さらに、それを契機として正典の自己主張に聴くという正典との「対話」を、より真剣なものとする刺激となるはずです。

他からの反論を介して、初めて「多彩性における統一」という、正典の表現様式に即して正典をして語らせることが、より厳密になってくるのです。
 
受肉のロゴスがもはや抽象的に「神の言葉」でないことに対応して、この受肉のロゴス・キリストを証しする聖書も、抽象的なものではなく、「救拯史的場」なのです。

聖書を「人の言葉」に対するものとしての「神の言葉」というに止まらず、あえて、これを「正典」とすることの意味が改めて問われる必要があります。

「正典」は、「救拯史的場」という特定の形態の故に、正典なのです。

それは「具体的場」であるが故に、その解釈者をして、救拯史の担い手であるイスラエル、ひいては教会とともに、その救拯史を踏み直しつつ、その救拯史の地平の示す高さ・深さ・広さに「主体的に参与」させます。

教会の自己反省、自己批判は、時代から問いかけられて、問う教会の問いを媒介として、問う者が問われる者となるという「主客逆転」をなさしめられる否定の場を、正典という救拯史的場として体認する程度に正比例するというべきでしょう。

イスラエルとともに、教会とともに、その正典の「救拯史を踏み直す」という正典的解釈の営みは、その「人間中心的歴史解釈」、ひいてはあらゆる出来事の直接的解釈を、「神中心的歴史解釈」によって、見直させられ、その低さ・狭さ・浅さをさばかれつつ、その救拯史が証しするキリストによって、究極的に問われ、不断に、「価値転換」を迫られることであるはずです。

教会がそのかけがえのない存在理由を貫き、この時代におけるその課題を果たすために不可欠なものとして正典的聖書教育の必要があるのです。

正典的聖書解釈に基づく聖書教育は、聖書の思想の結論的断定に止まることなく、救拯史という「遠近法」にその解釈者を招き入れる「場」です。

この救拯史的場の遠近法に参与させられる者は、そこにおいて、「神の時」と「人の時」の差異を学ばされるのみでなく、「神の思い」と「人の思い」の無限の隔絶、「神の評価」と「人の評価」の差異を仰がされることにより、そこに「隠れて働きたもう神の支配」を仰ぐことを学ばされ、上からの聖霊の働きに対して場を「明け渡す」という「礼拝的」姿勢を学ばされる筈です。

選民史・教会史を貫いて証しされる歴史の支配者の上からの「変容」(悪意の逆用)を仰ぎつつ、下からは、正典を場とする前提の克服が「無知の知」としてあばかれるという意味で、正典的聖書解釈は時代に対し、社会に対し、「開かれつつ・閉ざされ」「閉ざされつつ・開かれ」た逆説的緊張的在り方のエネルギーを、与えうるといえます。
(終わり)









posted by 道川勇雄 at 06:19 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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