2019年02月21日

「救拯史観8-2」

「救拯史観8-2」

(2) 教会建設時代A

「キリストのからだの肢」とされた者は、キリストにあって強い者、賢い者であるから、他の弱さ愚かさを「負う」にふさわしい者とされる。

それゆえパウロはいう。

「わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。
わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。
キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった」(ロマ書15:1ー3)と。

聖書によれば「神がすべての者にあって、すべてとなられる」(Tコリント15:28)ということが、救拯史の目標である。

だがこの目標は「万物のキリスト帰一」を通して遂行される。

なぜならキリストのみが、神の前には「唯一の然り」だからである(Uコリント1:20)。

キリストを首とする「キリストのからだ」である教会とは、したがってこのようなキリストへの万物帰一を、地上の普通史の中に立ちつつさし示させられる証言体である。

なぜなら、
「神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。
そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。
この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない」(エペソ1:20ー23)
からである。

この言葉によって、普通史と救拯史の関係は決定的なものとなる。

それというのは、救拯史は、普通史の成立因であるあらゆる支配、権威、権力、権勢をその下に従えたキリストへの宇宙帰一を志向することにおいて、普通史が救拯史の中に包まれるという関係をもたせられているからである。

したがって教会の肢であるキリスト者の行手にはつねに「キリストの凱旋」があるのみである。

「しかるに、神は感謝すべきかな。
神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。
わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである」(Uコリント2:14-15)
と言われているとおりである。

さらにここにはきわめて奇異な関係の提示がある。

すなわち、「キリストの凱旋」と「キリストを知る知識の香り」との取り合わせである。

この一見奇異な取り合わせが、パウロ書簡の底流をなしていることを発見することは、また大きな警きである。

すなわちこのことがエペソ書にはさらに宇宙的なスケールにまで拡大されているからである。

「この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったのである。
それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。
ーーそれは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、更にまた、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである。
それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである」(エペソ3:5ー11)
とはその言葉である。

まずここには、教会時代というものの特殊性は、前の時代までは、神的意図に隠されていた奥義開示の時代であるという。

これはあきらかに、創世記にしるされている「世界万民の祝福」(創世記12:1-3、神の「根源約束」)ということで、それは初めてこの教会時代において実現した(コロサイ1:25ー26)。

そして次には、普通史の背後にあって、これをあやつる「天上のもろもろの支配や権威」に対する教会の攻撃は、「教会を通して多種多様な知恵を知るにいたるため」であるとされていることである。

前掲の、「キリストの凱旋」がここでは、対悪霊戦争に対する凱旋の意味にまで拡大され、教会の肢が発散させるキリストを知る知識の香りの及ぶ対象が、天上のもろもろの支配や権威として開示されているのである。

端的にいえば、悪霊との戦いにおいては、キリストが先頭に立ち給い、その行手には「キリストの凱旋」があるのみであるが、教会としては、「キリストを知る知識」に深まることにより、対悪霊的なキリストの凱旋に参与せしめられるということであろう。

つまり、教会は教会となることにおいて、万物のキリスト帰一という救拯史の目的実現に参与させられるということである。

「教会は教会でありつづけることによって、教会のはるか外側の領域で、キリストが諸権力の支配を危うくされる攻撃の道具となる」といベルコフの聖書神学的洞察は傾聴に価いする(H・ベルコフ著、藤本治祥訳『キリストと諸権力』日本基督教団出版局、一九六九年、六一頁参照)。

ところでキリストとの出会いは、パウロにとっても、キリストを知らされることであり、キリストを知らされることは、キリストを知る知識の絶大な価値にふれることであるから、そこに不断の価値転換が起こらずにはいない(ピリピ3:7以下)。

その結果は、必ず「キリスト志向ということの逆説性」に対して目が開かれてくる。

それを示す代表的なパウロの告白が、
「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。
その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。
わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。
途方にくれても行き詰まらない。
迫害に会っても見捨てられない。
倒されても滅びない。
いつもイエスの死をこの身に負うている。
それはまた、イエスのいのちが、この身に現われるためである。
わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。
それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現われるためである」(Uコリント4:7以下)
と言われている。
posted by 道川勇雄 at 06:56 | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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